床の間と新茶

osamuharada2015-04-22

午後には、窓を開けはなった畳の部屋でも「新茶」を喫しています。自己流「床の間」には、最近手に入れた川端先生の四十歳代の水墨作品をかかげてみた(写真右側)。左のコンテによるエスキースは先生が八十歳代のもの。二つのモノクローム作品を並べてゆっくりと眺めてみる。
先生がNEW YORKへ移り住む前の四十代作品は、まだ半具象画的だったのがよくわかる。これはイタリアの古い街を描いたもの。しかし早くも渡米後の抽象表現主義に近づいている。八十代のエスキースのほうは直接先生から譲り受けたもので、この時代の完成作品とまったく同じ筆勢です。しかも四十代の筆勢とも同じであることに気がつきました。運筆には気迫がこもり、しかも清冽な印象はまったく変わっていなかった。そのことにもぼくは感動していました。
文人画ではないけれど、見ているうちに鉄斎を思い浮かべずにはいられなくなってきた。こんどは宇治の煎茶をいれて飲みながら、富岡鉄斎の画文集をひもといてみる。先生の絵と鉄斎の芸術には、共通分母のようなものが存在しているなあ、とつくづく思った。
ルーツは、二人とも同じ京都で、代々呉服関係の家系であるというから、古くは「秦氏」の血脈にあるのではないか…。秦(ハタまたはハダ)の読みは故あって、歴史のある時代からは消え、羽田(ハダ)や川端(かわバタ)などの表記に隠されてきたとも言われている。ちなみに原田(ハらダ)も同じ文脈らしい。こんなことを考え始めると、芸術から古代史方面へ寄り道して、いつものことながら終らなくなる。こんどは書庫兼書斎に引っ越して古い文献をあさることになる。
静かに「煎茶」を喫するということは、ただ単に お茶を飲むだけにとどまらず、意識を働かせれば それだけで時空間を飛び超え、やがては仙境へと至ることができる近道だとも思える。しかも煎茶は簡単で、実によくできた作法のような気がしてきましたよ。これもまた鉄斎翁の言うとおり。即ち《 今人古心 》でしょうか。
自己流「床の間」のことは→[id:osamuharada:20090721] 写真は→http://osamuharada.tumblr.com/