「築地」歴史散歩

osamuharada2016-10-22

豊洲モンダイで、頓挫した築地市場。ヤツガレの地元でもある「築地」の歴史を調べていたら、明治30年(1897年)の東京地図を見つけて、ブッたまげたのであります。これじゃ日本はどう見たって植民地ではないか。(ヤバイ話なので歴史好きな人だけ読まれんことを)
築地市場のあるところは、もともと江戸時代に尾張藩蔵屋敷があって、名古屋方面からの輸送船を停泊させる船だまりも敷地内に完備していた場所。江戸湾東京湾)から江戸城へ、水路で物を運ぶには最短距離でした。明治維新直後からは、ここを日本の【海軍】(実はイギリスがつくった)がずっと占有していた。
西側の緑が多いところは「浜離宮」。元は徳川将軍家の別邸があった大きな庭。ここは今でも変わりませんが、明治維新直後に【延遼館】という外国客専用の迎賓館ができた。明治2年にイギリス王子エジンバラ公が、明治12年にはアメリカ大統領グラントなど、欧米列強が植民地日本をさっそく見学しにやってきた。「延遼館」は、お雇い外国人コンドル設計の石造建築。浜離宮の北には「新橋ステーション」(汐留)があるから、外賓は横浜港に着いてから、汽車に乗ってやってきたのでしょう。英国大使パークスなら軍艦から直接築地に乗り込むことができました。
ちなみに新橋駅も鉄道も、イギリスからの借金で、伊藤博文(当時まだ下っ端役人だったはず)がつくっちゃった。新橋駅の東隣り(現銀座八丁目)にあるのが明治10年にできた【第十五国立銀行】。ここは俗に「華族銀行」とも呼ばれ、元公家の岩倉具視や江戸時代の元大名たちが華族(貴族)となって、私腹を肥やしていた銀行ですね。日本の新興支配者たちに利権を与えて、英国が間接的に日本を植民地支配していた証拠物件のひとつ。
では、150年も前に、どうやって遠いロンドンから東京へ、日本の内政支配を直接コントロールすることができたのか? その謎をとく証拠物件が、地図に描かれた【電信局】の巨大な西洋建築物なのです。場所はいまの新橋演舞場あたり。築地界隈では最大級の建物として描かれている。地図右上に歌舞伎座があり、右端には昔の本願寺が描かれているけど、それよりもでっかい「電信局」とは、国家的に主要な建物だったのでしょう。
【電信】について調べてみたら、明治維新の頃には、すでにロンドンから世界中に【海底ケーブル】が網羅されていたのです。大英帝国が世界の「情報」を独占していたともいえる。どの国へもモールス信号で瞬時に連絡できちゃう。明治時代、まだ空中を飛ぶ電波通信はない。海底ケーブルは船で航行しながらケーブルを落としてゆくので、陸上では気づかれない。まして明治初期の頃だったら、たった二、三日でロンドンから東京へ電信指令が届くなんて、誰も信じなかっただろう。まだチョンマゲの人が残っていた時代ですよ。
地図を見て想像するに、その海底ケーブルを船で東京湾や運河に沈めれば、すぐに「電信局」へ上陸できるというロケーション。そして明治5年には、こんな怪しい外人も送り込まれていた。引用文→《 1872年から1916年まで、ウィリアム・ヘンリー・ストーン(William Henry Stone, 1837-1917)という勅任待遇のお雇い外国人が対外通信に貢献した。日清戦争日露戦争にも活躍した。肩書きはフリーメーソン会長、電信協会名誉会員、勲一等旭日大綬章所持。》

そこで地図に戻ると、築地市場の北側、いまの朝日新聞社があるあたりに【水交社】とあります。勘の働くかたなら、すぐに飯倉東京タワーの下にあるフリーメーソンのジャパンロッジが、敗戦までは海軍の「水交社」だったことを思い出すでしょう。飯倉の前には築地にあったわけです。
宗主国への〈おもてなし〉に使われた【延遼館】。ロンドンから直に送受信をしていた【電信局】。エージェント(秘密情報員)が出入りして裏工作に専念していた【水交社】。これらがみーんな築地に結集していた。
さらに地図を見れば、本願寺境内にある小さな寺や墓があった一区画。むかしは樋口一葉の墓もあったそうです。そこがいまの場外市場(築地4丁目)ですね。そして市場通り沿いにある料亭「新喜楽」(芥川賞直木賞はここで選考される)のところは、明治維新直後に新政府を裏で操っていた、大隈重信伊藤博文らが集合していた通称【築地梁山泊】のあった場所なのです。ここなら英国からの司令塔「電信局&水交社」まで歩いて5分で行けちゃうな。京都から移った初期の新政府は、まだティーンエイジャーの明治天皇がいる皇居(旧江戸城)にあったというのにね。
やがて大日本帝国憲法を英国エージェントの伊藤がつくり、いつの間にか自分が総理大臣になっちゃう無茶苦茶な歴史。またネットから引用させてもらいます。→《 内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条と、大久保の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。しかし三条は、藤原北家閑院流嫡流清華家の1つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。》
現在は、新たに光通信での「海底ケーブル」が世界情報網の主流になっていることを考えれば、欧米の支配者は150年も前からとっくにそれを利用していたとは恐ろしや。海底ケーブルによる英語の「赤電報」ひとつで総理大臣を操縦してきたわけか。(いまも国会で台本を棒読みするだけの総理大臣、長州の伝統だね。)
以前から興味を持っていた明治維新の裏面史。初めてできた日本海軍のオフィスは、通称「築地ホテル館」の中にあった。しかしそのホテルの実名は HOTEL DES COLONIES「植民地ホテル」だった。1868年 明治維新の最中にできたホテル。前に書きました→[id:osamuharada:20080918]
その後、1900年「パリ万博」の EXPOSITION COLONIALE 「植民地展覧会」で、世界から見た日本の実体が明らかになりました。→①[id:osamuharada:20110725] ②[id:osamuharada:20110724] 
ぼくの歴史への興味は、もとより美術史研究が目的でした。縄文時代の美意識が弥生時代になって何故失われそうになったのか、という疑問から始まって、オマケで邪馬台国を発見できたのは嬉しい。また江戸時代までの日本的美意識が、明治になって封じられ排斥されてきた謎は、幕末維新の裏側の歴史をちゃんと知れば納得できちゃう。何事も自分の眼で見て確かめなくては、なーんにも解からずじまいでオワリですよね。
地図は【Tumblr】で拡大してご覧ください。①明治東京地図(築地部分)②巨大な英国風の「電信局」写真。 ③④海底ケーブル施工の写真とイラスト。→ http://osamuharada.tumblr.com/