邪馬台国日乗

osamuharada2016-01-30

また沖縄県立博物館へ。沖縄本島北谷(ちゃたん)の沖で発見された海底遺跡邪馬台国である、という木村政昭先生の有力仮説を再確認。こんなに魅力的で、しかも論理的に首肯できる世紀の大発見を、完全に無視している博物館というのも珍しい。陸側の北谷周辺で発見された多数の線刻石版は「沖縄の謎」という投げやりなコーナーに展示されたままだ。海底遺跡はいまだに「遺跡」なのかどうか独自調査さえしていない。やる気ゼロの博物館。いつもガラガラで観光客ゼロなのは嬉しいけれど。今回もユックリ眺めていたら面白いことに気がつきましたよ。

① 線刻石版(右の写真)には、大型の帆船が上部にあり、いちばん下には高床式の建物が描かれている。長い柵状のものが中間に横断しているのは結界かな。よく見れば、絵柄の配置からして高床式建物は海底に沈んでいると思える。遠近法も知らないし、普通の景観であるならこういう布置では描かない。

この線刻石版は、陸側の「グスク」の祭儀場跡から発掘された。四世紀頃に地盤沈下した邪馬台国を、後々まで祭っていたものと思われる。祭儀を司るのは、いまも存続している沖縄の「ノロ」(女性神官)たちだ。【卑弥呼】=「アマミキヨ」の末裔ともいえる人々。

縄文時代晩期から、沖縄本島で後世まで使われていた黒曜石(新石器)は、すべて九州佐賀県の腰岳で産出されたもの。展示パネルには、その腰岳黒曜石の流通ルートが示されている。それはヤツガレが考察した倭人伝の邪馬台国への道程とピタリ同じものだった。太古より慣れ親しんだ古いルートを、弥生時代にも踏襲していた。

すなわち、腰岳を背にした松浦(現在の伊万里)【末盧国】から東南陸行五百里で、佐賀県糸岐【伊都国】に出る。さらに東南百里諫早湾内の一地点(弥生海退で広大な干潟だった)【奴国】に進む。次に東へ百里有明海の出口付近(同じく弥生海退で干潟)【不弥国】に出る。そこから南へ水行二十日の船旅で薩摩【投馬国】に到着。そして、さらに南へ船出して水行十日と島伝いの陸行で、沖縄本島に到着。本島中部(金武湾も干潟だった)に、隣接していた邪馬台国群21ヶ国を合わせて陸行一月で巡り、いよいよ北谷の前にひろがる干潟に着く。満潮のときはエメラルドグリーンの海上にある邪馬台国が見えてきた。潮が引けば琉球石灰岩で白く輝く城塞【女王国・邪馬台国】まで歩いて渡れる。ここがいまは海面20m下にある海底遺跡(長径900m×幅200m)というわけです。「倭の地を参門するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なる。」と倭人伝に書かれています。というわけで、邪馬台国へは腰岳黒曜石の流通経路そのままで行けちゃうのです。もともと海洋系縄文人が頻繁に行き交っていたルートだと考えられる。彼ら倭人が水先案内人として、魏の中国人を女王国まで連れて行ってくれたのです。腰岳黒曜石→[id:osamuharada:20111126]

③博物館の前庭には、線刻石版とそっくりな高床式の倉庫が建っていました。礎石は琉球石灰岩、これなら干潟でも木の柱を建てられる。2000年以上前から、ついこの間まで高床式建物は使われていたでしょう。

参考写真:http://osamuharada.tumblr.com/

帰りに那覇の大型書店で、木村先生の名著『邪馬台国は沖縄だった』がまだあるかなと探したら、本格的な古代史を揃える書棚にはなく、沖縄の人文地理学(マンガ本も含む)のせまい書棚の最下段に二冊だけありました。沖縄の本屋まで、やる気ゼロなんだ。その二冊をまた買って、晩ご飯を食べに行ったビストロ「プチット・リュ」のシェフに一冊さしあげた。しかしこの本の装幀デザイン、もうちょっと、どうにかならなかったのかしら。

邪馬台国は沖縄だった!―卑弥呼と海底遺跡の謎を解く

邪馬台国は沖縄だった!―卑弥呼と海底遺跡の謎を解く

ぼくの黒曜石ルート=倭人伝ルート説は、木村先生の考えられるルートとはちょっと違ってしまいました。九州の上陸地点【末盧国】=唐津という通説を木村先生は受けいれられている。これでは畿内説&九州説と同じ間違いをおかす。しかし薩摩(鹿児島)から邪馬台国沖縄本島)までは先生と一緒です。