伊丹さんと猫の話

osamuharada2015-02-03

【 猫の話 】七十年代のはじめ、駆け出しのイラストレーターだった頃、伊丹十三さんのお宅へ仕事の打ち合わせにいったことがありました。六本木から狸穴 CHIANTI の横へ入って左側のマンション。そのころ結婚されたばかりの宮本信子さんに出迎えられて、伊丹さんの部屋に通された。昼間なのに窓はフランス風の鎧戸が閉め切ってあり、横板の隙間からこぼれる自然光と間接照明、それに外国製の家具調度などハイセンスなインテリアが素敵でした。意外なことに、伊丹さんはクラシックな長椅子の前に置いたコタツに入り座っておられた。コタツの上掛けは、紺色のモヘアの膝掛けだったかな。まずは寒いからコタツにお入りなさい、とぼくと同行の編集者を招き入れてくれました。物腰やわらかく若造のぼくにもフランクに話しかけてくれたので、いっぺんに緊張がほぐれました。打ち合わせが終わり、話題が世間話になった頃、部屋の一隅から飼い猫が静かに歩いてコタツの横までやって来ました。すかさず伊丹さんが鉄砲のかたちで、BANG! と人差し指を猫に向けると、歩きながらその猫くんは真横にバタンと倒れ、死んだ振りをする芸を演じてくれたのでした。そしてまた起き上がり、すました顔でその場を退場。なんとも可愛いらしいブラックユーモアのセンス。やっぱり伊丹さんは何をやってもカッコいいなあと感心したものです。
最近は空前の猫ブームのようなので、ぼくもちょっと猫の昔話をしてみたくなったわけですが、それにしても伊丹十三さんのすることなすこと、本物の自由主義者だといえることばかりだったなと今にして思うのです。優しくてカッコいい リベラリスト
【 政治の話 】これも最近気になる嫌な話題。近ごろの AB 独裁政権を見るにつけ、「 全体主義 」という古い言葉が浮かびます。伊丹十三さんの父親で、映画監督 伊丹万作の一文を読むと、戦前の日本人がどうして全体主義に陥ったのか? 何故それがまた頭をもたげてきたのか?とてもよくわかります。→ 伊丹万作「戦争責任者の問題」:http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html この父にしてこの子ありなのですね。
抜粋:《 だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らない。 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。》 
《「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。》

全体主義】(百科事典より):〈 個人の生活や意見は国家全体の利害に従うべきだという思想あるいは政治体制。 大衆社会において、マスコミや大衆操作を通じて、個人生活のすみずみまで国家権力が浸透し得る状況の下で生まれる。 古典的独裁や専政と違い、思想や生活についても徹底した統制を行う。 民主主義を否定する原理として、特に第一次大戦後のファシズムやナチズムがその典型。〉
これが全体主義で「だますもの」なら、「だまされるもの」とは何だろうか。それは事大主義だと思うのです。【事大主義】:自主性を欠き、勢力の強大な者につき従って、自分の存在を維持するやりかた。
今年は、猫のほかに、誰もがこんなことを考えなくてはならくなりそうですね。「文化的無気力」にもならないよう前向きでいきましょう!