聖徳太子とTATTOO

osamuharada2015-01-12

今年もまた古代史の話。『倭人伝とTATTOO』の続きですよ→ [id:osamuharada:20141204](興味ない方はパスしてね)
顔や体に入れ墨をする風習が、3世紀の【邪馬壹國】(魏志)や、その名もずばり【文身國】(梁書)に見られました。中国が分割された南北朝時代のひとつの国「梁」は、西暦502年〜557年まで存在していた。つまり【文身國】は六世紀の情報。その比定地を(ぼくなりに)探し当てたところですが、今日はそれとはまた別のTATTOOの国を発見したのでご報告します。
時代は下って『隋書・東夷』のところを読んでいたら、中国を統一した「隋」(581〜618)の文帝のときに倭国から使いが来たという、かの遣隋史(と呼ぶのは日本史だけ)の話が面白かった。600年のことで(日本書紀には書かれていないが)、使者が伝えるには、倭王の名前は阿毎・多利思北孤(アメ・タリシホコ)だそうです。そしてその妻は鶏弥(ケミ)、太子は利歌弥多弗利(リカミタフリ)。さらに倭王後宮には女が六、七百人いる(ハーレムだね)。中央官の位階は十二等級があり、軍尼が百二十人などなど、次から次へと誇らしげに政権内部が紹介される。
次いで庶民のファッションから刑法や冠婚葬祭、人情風俗にまで話は及ぶ。そして驚いたのは、次の記載だった。【 男女多黥臂點面文身 】「男も女もその多くは、肘に入れ墨、顔面に点の墨を入れ、身体全体に入れ墨をしている。」と書かれている。そしてTATTOO情報のあとには「水に没して魚を捕らえる。」とまである。支配者は別種かもしれないけれど、民の倭人は海洋系縄文人とまったく同じではないですか。七世紀にもまだ健在でいてくれたとは嬉しいな。
次には突然「阿蘇山あり」と噴火を祭る風習などが書かれているから、この倭国は九州かと思うでしょ。ところが日本史の教科書では、このころは推古天皇(在位593〜628年)と、甥っ子の聖徳太子が大活躍した時代に重なっている。だからこの倭国とは大和朝廷飛鳥時代)のことであると勝手に決めつけているのですよ。
推古天皇は女帝だから、この倭王とは別人だと誰でも考えつくだろうけど、御用学者はそれでも負けない。いや聖徳太子さまは天皇の代理の摂政だから天皇も同然、倭王・多利思北孤(タリシホコ)とは聖徳太子のことである、と強引に決めつけた。日本史ではコレが定説になっているらしい。しからば大和朝廷の多くの男女は全身に入れ墨をしていたことも認めたらどうかね。飛鳥は内陸だけれど、わざわざ海に出かけて魚を捕っていたわけだよね。しかしこの問題については完全無視。都合が悪いと知らばっくれるのが御用学者のスキルというものか。実証主義などまったく通用しない日本史学の世界。これじゃ新興宗教に近いだろう。
次に、隋の煬帝607年のときに、また倭国から使者が来たとあり、タリシホコこと聖徳太子は、オレさま発言で、煬帝から顰蹙を買う。すなわち有名な「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや云々。」と。中国を統一した煬帝に対して、向こうから見たら東の夷(野蛮人)がタメ口で対等の挨拶をしてきたことになる。外交ベタというか、これじゃ煬帝だって怒るよ、翌608年には隋から使者を倭国に差し向けた。「蛮夷の書、無礼なる者有り。また以って 聞 (奏上)するなかれ。」と絶交状を渡したのだ。結局は「この後往来は絶えた。」と隋書は締めくくっている。タリシホコの聖徳太子はすっかり嫌われちゃったわけだね。
ところが日本書紀では、同じ607年に聖徳太子小野妹子を派遣したとあり、608年には妹子の他に学生八人を留学させたとまで書いてある。話が喰い違いすぎるだろ。さらに610年、614年も遣隋使を送ったことになっている。向こうの隋じゃそんな話は聞いてないよ。一体どうなっちゃってるのよ。そうとう怪しいぞ聖徳太子。また同じく607年には、法隆寺創建という大事業をやっていたことになっているんだもんな。倭国のタリシホコが、飛鳥の聖徳太子だとはありえない。
去年、清水書院の高校日本史教科書では2014年度版から聖徳太子虚構説をとりあげる、という GOOD NEWS がありました。高校生にも存在を疑われそう。
これで去年書いたノート『法隆寺の謎に挑戦』のほうも一歩前進しそうです。→[id:osamuharada:20140927]