倭人伝とTATTOO

osamuharada2014-12-04

古代日本人とタトゥー(入れ墨)の話題です。また長くなるので興味ないかたは飛ばしてくださいね。
魏志・邪馬壹国】: 沖縄本島北谷沖に沈む海底遺跡邪馬台国 説は、ぼくには自明のことのようになってきました。魏志でいう〈倭人〉とは、同じ日本列島のなかにあって、海洋系縄文人とでもいうべき人々で、農耕奴隷の弥生人とは別種であるということもわかってきた。
果てしない邪馬台国論争の中で、多くの論者が避けて通りたがる問題点に、倭人の特長としての【文身】(ぶんしん・入れ墨)があります。ある御用学者は、倭人(優秀な大和民族?)に入れ墨なんぞ猟奇的な趣味はありえないから、中国人が日本人を貶めるためにわざと書いたのだ、と反中アベシンゾーのような言いがかりを平気でのたまうのもいる。
しかし中国の『魏史・倭人伝』(260年頃書かれた)には、倭人が《 大小の区別なく、みな顔や体に入れ墨をする。》《 いま倭の水人は、好んでもぐって魚や蛤を捕らえ、体に入れ墨して大魚や水鳥の危害をはらう。のちに入れ墨は飾りとなった。諸国の入れ墨はおのおの異なり、あるいは左にあるいは右に、あるいは大きくあるいは小さく、身分の上下によって差がある。》と明記されているのです。 縄文時代の紀元前一万年間にも入れ墨の風習はあった。それは土偶の研究からで、顔にまで線状の入れ墨をしていたことが判明している。戦前までの沖縄やアイヌの人々にも、入れ墨の風習は古くから残っていた。紀元前の縄文人倭人は【文身】でもつながっていたと思う。
梁書・文身國】: 『日本書紀古事記』(720年・712年)とは違う古代日本についての記述がある中国正史は、重要なデータの宝庫です。中国二十四の正史のなかで、日本列島のどこかについて記録があるのは、十二の史書。それらを次々に読んでいるうち、あまり御用学者には注視されたことのない『梁書』(620年頃)の倭人伝に目を奪われました。これは翻訳本も出てないので、神保町の中国古書専門店で買った。そしてこの史書にのみ、まさにズバリ【文身國】という国の存在が書かれているのですよ。
梁書』のなかの倭人伝としては、西暦200年代の【邪馬壹國】と、三百年後の【倭の五王】について書かれていて、その直後に【文身國】の名が登場します。位置は《 在倭國東北七千餘里 》とあるから、「倭國」が沖縄、九州、畿内であったとしても、その方角が「東北」ならば日本列島のどこかになるはず。位置説明の後には、すぐに《 人體有文如獸 :人体には入れ墨があり獣のごとし》とあり、続いて《 額の上に三筋の入れ墨があり、直線の者は貴い身分、小さな入れ墨の者は賎しい身分。》と図柄の解説までしてある。それで国名が【文身國】とは判りやすい。この国が六世紀の古墳時代と同時期に存在していたとなると、【文身國】はやはり弥生人ではなく海洋系縄文人の流れにあると思えてくるのです。もしかしたら、海底に没した邪馬台国(女王・卑弥呼&壱与)の末裔が移動した国かもしれませんね。
【文身國】の、入れ墨の話題の後には、また特異な情報が書かれています。《 王の建物の回りには掘りがあり、広さは一丈あって水銀を満たしている.雨が降れば水銀の上を流れてゆく。》と、ここには《水銀》について特筆してある。縄文時代から赤色の顔料として辰砂(硫化水銀)を用いてきたけれど、辰砂は精錬しなければ「水銀」にはならない。この精錬技術を持ち込んだのは【秦氏】と言われている。またこの辰砂を産出する地域は、主に日本列島を横断する中央構造線に沿った地域に限定されているそうだ。熊本→大分→四国→紀伊半島→伊勢湾→長野県→茨城県へと続くライン。【文身國】はこの線に沿って存在していたと思いたい。
そして『梁書』には、【文身國】の東に【大漢國】があり、さらに東の遠方には【扶桑國】、そのまた東の近くに【女國】の記載あり。というわけで、これから取り調べに時間のかかりそうな楽しい謎解きが、まだまだ待っている。またいつか続きを報告いたします。
★ 文身についての写真資料を Tumblrにアップしました。→ http://osamuharada.tumblr.com/  
上から→①昔の沖縄、手に文身施術 ②その文身の図版。 ③黥面文身(顔に入れ墨)の台湾タイヤル族の女性。黒いレースのようでオシャレだな。 ④台湾の文身施術。 ⑤民族衣装も美しい台湾女性の黥面文身。倭人の風俗は、朱崖・儋耳(台湾・海南島か?)に相近し、と『後漢書』にも書かれている。
ハワイの博物館(Tattooの歴史)→[id:osamuharada:20120229] いままでに書いた邪馬台国ノート→http://d.hatena.ne.jp/osamuharada/searchdiary?word=%BC%D9%C7%CF%C2%E6%B9%F1