法隆寺の謎に挑戦

osamuharada2014-09-27

謎だらけの法隆寺について以前ココに書いたのは→[id:osamuharada:20080706]でしたが、いまだに検索で読まれています。古代史ファンのいかに多いことか。また古代史で食べている御用学者が多すぎて百家争鳴、なーんにも史実は判らないのが現状だからでしょうか。邪馬台国論争の騒ぎも続いているが、〈邪馬台国=沖縄海底遺跡説〉[id:osamuharada:20111010] は誰も得しないから無視されたままですよ。以下は古代史好きのかた向きなので、興味ない方はとばしてくださいね。
NHKハイヴィジョン特集の録画を見ました。前編【法隆寺:秘められた聖徳太子の夢】、後編【法隆寺:守り継がれた奇跡の伽藍】と何やら意味ありげで歴史ロマン風なタイトル。その放送のなかで、もとの法隆寺は670年に全焼したので、現・法隆寺はその後にできたものであり、旧・法隆寺の跡地が近くに発掘されている。それがこの映像、左上が現・法隆寺で、右下が旧:法隆寺跡(若草伽藍ともいう)の図。全焼してしまったので、塔の心礎と礎石や焼けた瓦などしか残っていなかったが、伽藍配置だけは復元できたという図解です。
しかし見ればすぐわかることだけれど、現・法隆寺と旧・法隆寺とでは伽藍配置がまったく違っているのね。もとの法隆寺跡は、中門から入ると正面に塔が建っている。そして金堂はその後にある。つまり縦一直線に配列されている。「守り継がれ」ちゃいないよね。参考書を調べてみると、この伽藍配置は「四天王寺系」または「斑鳩寺系」と呼ばれるもので、現・法隆寺とは違っている。いまの法隆寺のほうは「観世音寺系」の配置に近いらしい。
この番組では、旧・法隆寺が全焼する二年前、すでに現・法隆寺の金堂だけは先に建っていたという「珍説」が登場する。金堂に使用された一片の板木の年輪調査からそうなるのだという。しかも〈釈迦三尊像〉〈玉虫厨子〉や、後に夢殿の秘仏になる〈救世観音〉、この国宝3セットだけは新しいその金堂に安置しておいたので、焼かれずに残ったのだとのたまう。どう思いますか?このいい加減な仮説。こうすれば3点セットは聖徳太子が生きていた時代に造られたんだと説明できちゃう。いかにも御用学者の発想じゃないですか。またはNHK的というべきか。
ぼくの好きな通称【百済観音】は、映像だけ出ていたが、あいかわらず謎のままで何の説明もない。これも全焼する前に運び出されて、どっかに置かれて助かったということらしい。日本美術史的には、まったく幸運だったけれど、古代史としては意味不明の存在のようだ。もし旧・法隆寺が「斑鳩寺系」だとしたら、観音信仰ではなく弥勒信仰だったと思うのだが。そうなると「百済観音」という、明治時代になってつけた名前は撤回してもらいたいよね。まずは「観音」さまではなく「弥勒菩薩」でないとおかしいでしょう。それに「百済」ではなく「飛鳥」だと思うな。
さらに不思議なのは、旧・法隆寺跡を上空から見ると、伽藍配置の方位が全体に20度、西に傾いて配列してある。しかし現・法隆寺のほうは東西南北きちんとほぼ正確に並んでいる。ね、これもヘンだとは思いませんか。別の参考書をみると、聖徳太子のいた斑鳩の地には、斑鳩宮、斑鳩寺、中宮寺などの建造物跡や、道路(太子道)など、すべてが20度西に傾いていたのだそうです。太陽神ではなく、古代の大星(シリウス)を崇拝していたのでしょうか。
聖徳太子が実在していたかどうかはおいといても、622年に聖徳太子が死んだとするなら、そのあとのお家騒動で、蘇我入鹿中大兄皇子藤原鎌足などが次々と権力争いする渦中に法隆寺はあったことになる。全焼(ほんとは二度あったらしい)や再建(九州からの移築説あり)といまだに謎だらけなのは、何か都合の悪いことを隠し続けてきたからでしょう。いつの時代にも、権力に雇われた御用学者が、ムリヤリ珍説を捻り出すのもむべなるかな。現代はそれにマスコミも応援しちゃうから、真実はどんどん遠くへいってしまう、ということなんでしょうね。