倭人の織物

osamuharada2014-01-23

暖かな沖縄の冬、窓の外にはピンクの花が木に咲いている。熱帯・亜熱帯のアジアに分布する「大花蘇芯花」。
古本屋で見つけた『沖縄の織物』という本を読みすすむうち、「ティサージ」(手巾)という、沖縄本島の読谷(よみたん)や竹富島与那国島が産地の織物について書かれていた箇所があった。そこでまた【 魏志倭人伝 】の一節を思い出して、ひらめいちゃったのです。
倭人伝の邪馬台国には、【男子】のヘアスタイルが、みな髪を髷に結い、さらに【 木緜を頭にかけ 】と書いてある。そして沖縄のティサージも、男の頭にかける織物だったのですよ。 ね、沖縄=邪馬台国説にとってこれは有力情報ではないですか。ティサージは、手ぬぐいサイズの、髪や肩にかける装飾用の織物のことで、「ウミナイ・ティサージ」(祈りの手巾)は、娘たちが旅立つ肉親や兄弟に道中の安全を祈って贈ったもの。また「ウムイヌ・ティサージ」(想いの手巾)は、胸に秘めた想いのたけを託して恋する男に贈ったものだそうです。ウチナーンチュも倭人も、いずれも男が頭にかけていた。【 男子皆露紒以木緜招頭 】
戦後、失われつつあった「読谷花織」の伝統技術を、苦労して復活させたかたがいて、現在もティサージは織られていますが、戦前までのティサージは、ふつう木綿で織られていたものだと語っています。倭人伝には【 木緜 】の存在が書かれている。ところが、弥生時代の遺跡からは絹か麻だけしか出土しない。木綿だけが出てこないのです。とくに北九州は絹織物が多数発掘されて、これがまた九州=邪馬台国説の根拠になっているワケだけれど、考古学者がいくら頑張っても、北九州も吉野ケ里遺跡からも木綿だけは出ないのね。そもそも木綿が日本で一般に普及するのは、邪馬台国から1300年も後の、江戸時代になってからなのです。ところが倭人伝には、【 禾稲・苧麻を植え、蚕桑緝績し、細苧・縑緜を出だす 】と、絹や麻と並んで、木綿の栽培も行われていたとある。邪馬台国から魏の王へは【緜衣】という木綿のきものまで献納していますよ。
弥生時代最大の吉野ヶ里遺跡では、発掘品のなかの高級な絹織物に「まつり縫い」といった縫製技術までがあったそうですが、倭人伝のほうには【 その衣は横幅、ただ結束してあい連ね、ほぼ縫うことなし 】とあり、「ほとんど縫製しない」と特筆してあるのです。邪馬台国倭人は、弥生人とは別の場所に実在していたのは確かだと思います。
ついでながら、もひとつ。邪馬台国畿内説のほうの、おかしなところ。近年発掘された奈良の「箸墓古墳」が、3世紀後半の卑弥呼の墓じゃないのか、と大騒ぎをしていたわけだけれど、この墓からは馬の鐙(あぶみ)が出土されている。ここの首長は馬に乗っていたらしい。しかし残念ながら、邪馬台国には「馬」がいなかった。【 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)なし。】とわざわざ書いてあるのです。もはや邪馬台国畿内説 or 九州説というものは、御用学者たちが【魏志倭人伝】のほうに誤記があるのだ、として勝手に作ったフィクションにすぎないといえるでしょう。
前に書いた、倭人伝の話→[id:osamuharada:20130203] [id:osamuharada:20131207]