【 個人的な一人称の履歴書 】 戦後の男女平等教育の成果があったせいか、幼い頃から男友達なら〈俺〉で、女の子が相手では〈僕〉と変えていたような気がする。長じても男女共学だったので使い分けていた。もし男子校や体育部に入っていたら〈僕〉とは言わなかっただろうな。
一人称の〈俺〉を好んで使うようになったのは、中学の時に親友Aと観にいった日活映画《渡り鳥シリーズ》が影響している。その主題歌、小林旭の【 ギターを持った渡り鳥 】が愛唱歌となったせいもある。〈僕〉なんかより〈俺〉のほうが断然カッコよく思えてきた。声変わりする頃に、意識された〈俺〉の自我が目覚めたのかもしれない。さすらいの渡り鳥であるような〈俺〉にあこがれたというべきか。《 汐の匂いのする町が どこも俺にはふるさとさ 》だの《 俺もあのこも若いから 胸の涙もすぐかわく 》や、《 ギターかかえて あてもなく 夜にまぎれて消えてゆく 俺と似てるよ 赤い夕陽 》なんてところの〈俺〉に感情移入していたようです。一緒に観たAとは、「俺、お前」でずっと通した。
あるとき青山にあったボーリング場にてAと二人で投げていたら、なんと隣のレーンに小林旭アニキがやって来て一人静かに投げはじめた。Aは緊張のあまりどこをどうやったのか、自分のボールを隣のアニキのレーンにぶん投げてしまったのだ。スンマセンと謝ったものの、中学生のガキがこんなところに来やがって生意気な、と旭アニキは怒るかと思いきや、Aのボールが戻ってくるのを黙って待っていてくれ、何事もなかったかのようにまた投げはじめた。さすが渡り鳥の旭アニキは男らしい。あとで、ドジりやがってあんまりオメエがビクつきゃがるから、俺もついでに殴られんじゃねえかとヒヤヒヤしたぜ、などと「エースのジョー」こと宍戸錠の口調で言っては大喜びした。
〈俺〉と自称するのに慣れた頃に好きになった歌が、クレージー・キャッツ植木等の【 だまって俺についてこい 】だった。このあたりから、対女子以外はすべて〈俺〉になっていった。この歌で気が大きくなったせいだろう。《 ぜにのないやつァ 俺んとこへこい 俺もないけど 心配すんな 》と無責任に気分だけは大きくなる。《 見ろよ 青い空 白い雲 そのうちなんとかなるだろう 》ときたもんだ。
美大を卒業して自立すると、世界が急に広く果てしなく見えてきて、いつまでも「オレ、俺」と自己主張ばかりしているような物言いは使いづらくなる。社会に出るといっても、最初ッから、すまじきものは宮仕えとフリーランスだった。おかげで上下関係こそないが、それでも仕事で〈俺〉はまったく通用しない。そこでもっぱら対女子用だった〈僕〉のほうへ、全面的に宗旨がえをした。時には使い慣れない〈私〉も用いるようになって、窮屈な社会人となった。
当時、歌のほうで〈僕〉を世間に広めてくれていた加山雄三の功績も大きかった。あのころから、〈僕〉でもそれほど女々しく従順な感じではなくなってきたようだ。岩谷時子作詞【 君といつまでも 】の《 幸せだなあ 僕ァ君といる時が一番幸せなんだ 》で、〈僕と君〉にも〈俺とお前〉的要素が加わったような気がする。
36歳のときに、好きな美術について自由に書く本を依頼され、タイトルに〈僕〉を使おうと思ったのは、仕事のイラスト稼業とは別の、超個人的な美術趣味の本になるからだった。『 ぼくの美術帖 』と平仮名にしたのは、〈僕〉のシモベとも読めるところが、自由を阻害されているように思えたからで、ただ気分の問題にすぎない。気持ちはフランス語の一人称で【 MON CAHIER D’ARTS 】のほうだった。しかしまあ三十代だったから〈ぼく〉でも良かったけれど、五十過ぎていたら、書名にまで〈ぼく〉とはさすがに恥ずかしくて使わなかったでしょう。
終世「俺、お前」のポン友だったAが先年亡くなったので、いまやもう〈俺〉と屈託なく言える相手もいなくなった。葬儀の時に、Aが好きだった歌、小林旭の【 北帰行 】を誰かが流した。《 今は 黙してゆかん なにをまた語るべき 》もうあいつの〈俺〉を聞けなくなったのが「俺」は寂しい。最近は孫に〈俺〉の座を奪われてしまったし、いよいよ〈ぼく〉もお蔵入りにすべきか考慮中。しかし閑なトシヨリ向きの一人称とは何でしょう?