アトリエ日記

osamuharada2013-05-07

今年の屋久島産〈新茶〉を喫す。味覚は爽やかこのうえなく、香りに薫風を感じる。アトリエの外の新緑。目には青葉で、これなら風景絵などない文字の茶碗がふさわしい。などとあいも変わらず〈 小人閑居して不善をなす 〉です。かくいうヤツガレもついこないだ、67 YEARS OLDに突入いたしました。どうあがいてみてもただのトシヨリですが、あまり老齢への自覚が持てないのは、すでに老人ボケなのかな…。もすこしシャンとして、しっかりしよう。ついては参考までに『断腸亭日乗永井荷風の六十七歳はどうだったかな?と久しぶりに再読す。比較するのもおこがましいが、同い年なれば、また格別な感慨あるものです。
荷風の六十七歳は昭和20年。東京大空襲と敗戦の年にあたる。1月24日《 東京住民の被害は米国の飛行機よりもむしろ日本軍人内閣の悪政に基づくこと大なりといふべし。》と体制への不快感をあらわにしている。ここまではヤツガレも現内閣に対して同じような思いはする。しかし3月9日には、ついに《 夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。》たる事態となり、その後は焼け出され、逃げまどい、知人宅を転々として生死の境を彷徨するという、六十七歳にとってはあまりに過酷な年ですよね。
5月8日には《 去三月の初家を失ひてより後わが残生更に一段の悲惨を加ふるに至れり。》とだいぶ気弱になっている。5月25日《空晴れわたりて風爽やかに初て初夏五月になりし心地なり。》と、いったん知人宅にて落ち着いたかとおもいきや、夜に再び空襲にあい、《 爆音砲声刻々熾烈となり空中の怪光壕中に閃き入ること再三、》防空壕からも逃げ出した。
6月2日、やむなく東京を脱して兵庫県・明石へ避難。旅中にも日記を欠かさず《 明日をも知らぬ身にてありながら今に至つてなほ用なき文字の戯れをなす。笑ふべく憐むべし。》とあくまで文人らしい。6月28日、次の避難先の岡山でまたも空襲にあう。《 余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。》読みすすめばこちらまでリアルな戦渦の恐怖に引きこまれる。
8月10日《 広嶋市焼かれたりとて岡山の人々昨今再び戦々兢々たり。》とあるからには、〈原爆〉〈放射能〉についての知見はまだ何もなかったのですね。ピカドンは被曝した子供たちが使い始めた言葉でしたし…。そして8月15日の終戦。ここまで読んで、やっとこちらも一息つけた。その後は、敗戦後の世情不安や食料欠乏などつぶさに記載しながらも、《 とにかく平和ほどよきはなく戦争ほどおそるべきものはなし。》と実感が書かれている。長明の『方丈記』を彷彿とさせる、荷風の六十七歳。岩波文庫で50ページ分の昭和20年。
時代は違うが、同い年のヤツガレも、昨今のアベ大政翼賛会を嫌悪する。世界の範たるべき平和憲法の改悪は、とどのつまりが米軍の手先として、日本の若者が徴用されるだけのものだろう。 荷風の日記、12月18日《 物価の暴騰測るべからず。枕上ユーゴーの詩集『黙想』を読む。毎夜月よし。》