「まるたか」のマッチ

osamuharada2012-11-03

蜘蛛の巣が張っているアトリエの倉庫にて、流行の〈断捨離〉をこころみるも、しまい込んで三十年ぶりに見る懐かしい物は捨てがたい。日本橋にあった酒亭「まるたか」のマッチが出てきた。作家の宇野信夫と、新派俳優の花柳章太郎が交代で描いた木版刷り。この店の贔屓だったので請われて描いたのだろう。二人とも絵は素人ながら描くことが好きだった。写真左下の柳の図(宇野信夫)が、とくに感じ出ているよなあ。表から裏に続き柳の葉がしだれているだけの単純な絵柄で、あとは屋号と住所電話番号のいたってザックリとしたデザイン。しかしそれだけで、「まるたか」という小ていな店のたたずまいを彷彿とさせている。眺めていると、たちまち店のオヤジさんとおカミさんの、真っ白な割烹着姿が目に浮かんでくる。とびきり人なつこい笑顔は、東京を通りこしてもっと昔の、江戸の人の顔そのものを想像させた。もう一度あの檜のカウンター前に座って、冬場の煮こごりだの、煎りどうふで一杯やりたいな。拙著初版のほうの『ぼくの美術帖』出版記念にと、編集の人たちが酒を酌みかわして祝ってくれたのも「まるたか」だった。オヤジさんに久保田万太郎の話を聞くと、なおさら相好をくずして「先生は…」という枕詞で始まり、いろいろ楽しい話をしてくだすった。その声と江戸弁の口調までもはっきりと思い出す。多分ぼくは最年少の客だったろうが、当時まだあんな古いカタチの酒亭が存在していて、それに間にあうことができて良かったなあ、とマッチを見ながらつくづくと思った。
       ま る た か で あ ひ し が 名 残 夕 し ぐ れ    万太郎

以前書いた「まるたか」のこと→ [id:osamuharada:20060616]、[id:osamuharada:20081208]