非常事態の中の愉しみ

osamuharada2012-06-14

週刊誌、雑誌のたぐいは、買ってまで読む気がおきないのですが、『週刊文春』の小林信彦さんの連載エッセイだけは、いつもつい本屋で立ち読みしちゃう。そして毎年、一年分が単行本になるとすぐに買う。さすがに去年の3・11以後の文章には、悲痛な言葉が並んでいた。この国の成りゆきを憂い、テレビ報道・新聞などの大マスコミ批判も鋭かった。そして一年がたち『非常事態のなかの愉しみ』(文芸春秋社刊)が出版された。とてつもなく大きな変動が、つい昨年から始まったばかり、という生々しい実感に満ちている。軽妙洒脱な文体のなかに、この時代の貴重な証言がある。
ぼくが小林信彦ファンになったのは、くだんのビートルズが世に出るよりちょっと前、中学から高校にかけての頃(半世紀も前だ!)。当時の小林さんは中原弓彦というペンネームで、ミステリー雑誌『ヒッチコックマガジン』(1959〜1963)の編集長をされていた。この雑誌は、ぼくのようなティーンエイジャーにとっては、都会的な大人世界への入門書でもありました。編集長としての編集センスや、コラム、評論が群を抜いてアカ抜けていたと思う。それに弟さんである、小林泰彦さんのイラスト(早くも挿し絵ではなくイラストと呼んでいた)の大ファンにもなり、ヤツガレはこの兄弟に感化された若輩といえるでしょう。ミステリーはもちろん、映画、芸能、音楽、ファッション、なんでもその視点が斬新でカッコいい雑誌だったなと記憶しています。またその頃の、東京の時代状況がリアルな、小林信彦の自伝的小説『夢の砦』も大好きな小説のひとつになりました。
70年代のはじめ頃、雑誌『アンアン』の取材に便乗して、憧れの小林信彦さんにお目にかかったことがあります。淀川長治さんとお二人の映画対談企画で、司会進行役がアートディレクターの堀内誠一さん。若造のぼくはその頁のイラストを担当するだけの用で、末席を汚して、ただただ唖然として聞き入っていました。強烈な映画マニア同士の、丁々発止の一騎打ちが面白いのなんの。世の中には、こんなに自由で、人生を楽しむ大人たちがいるんだなと圧倒させられたようなわけです。
ところで、その時のイラストは何をどう描いたのか、まったく自分に記憶が無いのですよ。没になったのかもしれないな。それはともかく、その対談場所だった築地の料亭(お座敷で中華料理)での、室内の情景から、小林さん、淀川さん、堀内さんの、それぞれの姿や声、仕草にいたるまで、多分後でイラストに描こうとする必要もあったからなのか、今でも映画の名シーンでも見るかのように、シッカリと視覚野に焼き付いているのでした。

非常事態の中の愉しみ 本音を申せば

非常事態の中の愉しみ 本音を申せば