倭人伝ノート

osamuharada2011-11-26

倭人伝フィールドワークで歩きまわる時に携行する道具類は、まず軽いことがベストだと気がついたので、いつも愛用の筆記用具ペリカンモンブランは持ち歩かないのです。トシヨリは少しでも荷を軽くしておかないと思うように歩けなくなる。こうゆう時には、フランスの定番BICの4色ボールペンが軽くていい。最近発売された、インクの色が美しい新4色ボールペン(黄緑の柄のほう)も気に入っています。二本合わせて8色もある。定番の黒、緑、群青、赤。新色のピンク、紫、空色、若草色。あれこれ色分けをして書き込むのにとても便利です。特に白地図に書き込むのに最適。インクの彩度が高いせいなのか、なぜか謎だった事柄も明快に解釈ができたような気がしてきて、スッキリと考えがまとまる。
このBIC色分けのおかげ?で、九州佐賀県の【末盧國】の位置がわかった。定説化されている「唐津」ではない。「伊万里」の近隣「松浦」である、とヤツガレは確信したのでありマス。この場所だというポイントは、松浦近くの「腰岳」(標高488m)が、縄文時代には、黒曜石を産出する山だったこと。九州で使われていた新石器(黒曜石)の、三大産地のうちの一つがなんとこの「腰岳」だったのですよ!
今でもヒゲが剃れるくらい鋭利な黒曜石の細石器は、一万年以上前から、新石器革命とでも呼べるくらいの最先端の道具なのでした。なにしろ縄文人はこの細石器ナイフを器用に使いこなし、ウナギですらちゃんと三枚におろして食べていたのですよ。フグだって食べていた。黒曜石を産出する箇所は限られており、たとえば関東一円で使われていた黒曜石は、すべてが海の向こう伊豆七島神津島から産出した物のみだったのです。
数少ない黒曜石の産出地「腰岳」は、縄文すなわち新石器時代には大いに繁栄して、九州から沖縄に到るまでの新石器最重要地点だったのです。「腰岳」を後ろに控えた【末盧國】は、伊万里湾が水路となり、縄文時代から物流も発達していたでしょう。三世紀においても海洋系縄文人である倭人たちにとっては、古馴染みで、昔から重要な場所だったはずです。
倭人は、石器を金属器に持ち替えた弥生人とは別の人々だったと考えられます。倭人伝には、【一大國】の次に、《 また一海を渡る千余里、末盧國に至る。四千余戸あり。山海にそうて居る。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕らうるに、水、深浅となく皆沈没してこれを取る。東南陸行五百里にて伊都國に到る。》とあります。
【末盧國】の前身は、黒曜石の流通のために、海路も陸路にも、すでに一万年前から通じていた集団。従って陳寿のいう【東南陸行五百余里】は正確な情報で、どこにも誤字なんてあるはずがない。【伊都國】は方角の違う「糸島」ではない。倭人伝を素直に読めば、邪馬台国群の「倭人」は、海岸に寄り添って生活する海洋系の縄文人で、弥生土器を持つ農耕系の弥生人ではないのです。伊万里湾には、生きた化石といわれるカブトガニが今も生息しています。干潟で米作りなど無理ですよね。
海底に没した【耶馬壹國】と交流のあった【末盧國】の末裔は、後に「倭冦」と呼ばれる海賊の倭人になったのではないか。さらに時代が下って、勇名を馳せた「松浦水軍」となり、近海から瀬戸内海までを支配した海洋系の人々ではないだろうか。まず縄文の地図と弥生の地図、その後の歴史地図とを、色分けして、重ね合わせてみれば一目瞭然となることが多いのです。
とゆうような重大発見が、一瞬のうち脳裡にひらめく時には、外にいても直ちにメモらなくてはならない。ちょっとアセってしまう。早くこのアイデアを書いておかないとすぐ忘れそうだ。この登山用品店で買った手帳は、外で雨に濡れてもすべてウォータープルーフの紙でできているから安心だ。しかも軽ーい。せっかく外歩きでひらめいても、文字や図が濡れて消えちゃうと困る。フィールドワークに欠かせない磁石も、同じく登山用品店で買ったアメリカ製。無くさないように、いつもバッグにとりつけてある。