続・倭人伝モンダイ

osamuharada2011-10-20

また、【古代史好きのかたに】
くだんの週刊誌連載「倭人伝を歩く」シリーズの最終回が出たので、つい買ってヒマにまかせて読んでしまった。邪馬台国の位置が、最終的には【九州説】に落ち着くのか、それとも11年ほど前に発見された奈良の「箸墓古墳」(卑弥呼の墓だという)で、俄然強気になってきた【畿内説】になるのか、やっぱり気になるじゃないの。どうせ【沖縄説】だけは完全無視だろうけどね。
で、このシリーズのノンフィクション作家さんが参考にしていたのは、昨年出版された森浩一著『倭人伝を読みなおす』(ちくま新書)だった。テレビにもよく出ている森浩一センセイは、京都・同志社大学の名誉教授。司馬遼太郎の『街道をゆく』取材に同行したくらいの、超有名な人気考古学者ですね。しかし結論から言えば、あいも変わらぬ邪馬台国【九州説】にすぎない。それも筑後の山門郡(現・福岡県みやま市)を比定。考古学者なのに、ヤマタイ=ヤマト(山門)の語呂あわせで決めるとは。
そもそも倭人伝には、最初は「耶馬壱(または壹・一)国」と書いてあったらしく、どうも「耶馬臺国」ではないんだよね。読みも「壱・壹・一」がイチかイであって、「臺」(台の旧字)タイではなかったようです。それを後でまた原典のほうが誤記だということにしてしまったみたいだ(岩波文庫の注釈を参照してみてね)。皆で寄ってたかって大和・山門「ヤマト」に発音が似ているから、耶馬・臺「ヤマ・タイ」としたみたいだ。今ではだれもが「邪馬台国」が正式名だと思っている。ちゃんと倭人伝を「読みなおす」気なら、まず原典のモンダイを解決してからにしてくれないかな。
森浩一説は、方角も距離も読み方まで、自分に都合のよい解釈ですませて、土の下から発掘した3世紀の遺物だけで邪馬台国を強引に比定してしまうという、考古学教授センセイの権威をひけらかしての、相当デタラメな学説。まさに我田引水(また言っちゃったよ)で、これでは「読みなおす」もなにもないだろう。
唯一おもしろかったのが、実際に「倭人伝を歩く・ノンフィクション作家」さんが、週刊誌のための取材で現地を歩き聞いてみると、森センセイ独自の【九州説】であるべきはずの現地、「みやま市教育委員会生涯学習文化財担当者」の人は、笑いながら「私は、邪馬台国はここではなく奈良の纏向遺跡と思いますが」とにべもないお答えだった。箸墓古墳のある纏向遺跡のほうをオススメしちゃうバリバリの【畿内説】派なのです。地元にしては無欲なところがいいけど、これじゃアンマリだよね。それで、ノンフィクション作家さんの頭の中は、九州説VS畿内説がぐるぐる渦巻いて、何もまとまらなくなってしまったようだ。とどのつまりは、これぞ「歴史ロマン」(嫌な言葉)という月並みなレトリックで、お茶を濁して終わらせたつもりでいるらしい。こういうのって消化不良を起こさせるよね。
シロウトでも、中国人でも、倭人伝を素直に読めば沖縄に行き着くはずだが、あいにく沖縄には弥生時代らしい考古学的遺跡がなく、縄文時代のままが12世紀まで続く。これは3世紀の中国人から「倭人」と呼ばれていた人たちが、海洋系の縄文人だったからでしょう。北九州から上陸して、西日本で、米作りをはじめて弥生土器を使う農耕奴隷と、青銅や鉄製の武器を持つ支配階級の武人が「弥生時代人」なら、同じ頃の「倭人」は南日本に残る縄文土器を使い続ける人々だった、と別に考えればモンダイはないのです。
気象学では、弥生時代の紀元前4世紀から紀元後の3世紀までの間は、短い小氷河期だったそうで、日本列島全体も寒冷化していたために、かえって南の沖縄は今より涼しく快適な気候の時代だった。《倭の地は温暖、冬夏生菜を食す》と倭人伝にある。そして「縄文海進」に対して「弥生海退」といい、海面は今より低くて、陸地がひろがっていた。
九州でも、日本一の干潟といわれる諫早有明海のあたりは、当時かなり陸地の部分が多かったのではないだろうか。つまり【伊都国】から続く【奴国】と【不弥国】はその陸地の水際に存在していたと考えられる。倭人伝には《今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕らえ、文身しまた以て大魚・水禽を厭う》という特長もある。海産物が豊富な地で暮らしていたのです。後の沖縄でいう「海人・ウミンチュ」や、九州の「白水郎」は倭人の名残りではないかな。
気候変動にともなって、大津波地盤沈下で消えていった「倭人」の地。ほとんど遺跡が残らないのは致し方ない。考古学者さんにはつまらない地だろうね。しかしこれは、「倭人伝」以後、中国人が日本人について記載していない空白の百年間の理由であるとすれば納得できる。ミッシングリンクには気候の大変化という歴史的事情があったのだと。
沖縄は1771年(江戸時代)に、ギネスブックにも載る、記録史上世界最大の大津波(85.4m)があったところとしても知られている。それより1500年前にも大津波があったとしたって不思議ではない。沖縄には「津波」(ツワと読む)さんという名字や、地名がある。友人宅の近所に「津波モーターズ」という自動車修理工場があって、初めて見た時に、沖縄には津波対策の自動車でもあるのかとビックリした。天災の記憶をなくさないために、「想定内」としてこの名が残っているのでしょう。これも倭人の知恵でしょうか。
上の【写真】は、『地図で読む日本史』(日本文芸社刊)に載っている《邪馬台国の推定地》。右下に《倭人伝の記述があいまいなため投馬国推定地が多数ある》と、またここでも原作者の陳寿さんはいい加減な奴だということになっている。あいまいなのは日本人センセイたちのほうでしょうが。投馬国だけじゃない、邪馬台国はこのページだけでも4個ある。