倭人伝モンダイ

osamuharada2011-10-10

【古代史好きのかたに】(興味ないかたは飛ばしてね)
先日『週刊朝日』を本屋で立ち読みしていたら、「ノンフィクション劇場・倭人伝を歩く」という連載があり、ちょっと引っかかったところがある。これを書いている作家が、福岡県の糸島市にある「伊都国歴史博物館」を訪れたというくだり。しかも糸島市教育委員会文化課博物館係という肩書きの人が案内をしている。とゆうことはですよ、【魏志倭人伝】に出てくる【伊都国】は、すでに糸島市にあったということに、いつの間にか確定されていたことになる。コレには驚いた。立派な伊都国の博物館までできているのだ。
すぐに「伊都国歴史博物館」のホームページを見てみたら、現在は企画展をやっていて、いわく「『邪馬台国』を支えた国々−今使譯所通三十国」というタイトル。知らないうちにどんどん歴史は解明されていたのかと、一瞬アセっちゃうよね。しかしまだ、肝心カナメの【邪馬台国】の位置だけは、あい変わらずわからない。そのかわりこう書いてある《「魏志倭人伝」に記された30国のうち、対馬国一支国、末盧国、伊都国、奴国は、その比定地が定まっており、他国を凌駕するほどの勢力を誇っていたことがわかっています。》ほんとかよ!
ヤツガレはむかしから縄文時代が好きな考古学ファンではあるけれど、弥生時代というものが大嫌いな古代史ファンだったので、この紀元200年代の邪馬台国には、あまり興味を持てなかった。それが木村政昭先生の、沖縄海底遺跡邪馬台国説にハマって、通称【魏志倭人伝】を再読しているうちに、中国の正史『三国志』、魏・呉・蜀の時代について書かれたこの文献(倭人伝はそのなかの魏志に書かれている)は、正確無比なものではないかと考えるようになり、たちまちこの時代が面白くなってきたワケ。
それで倭人伝の行路について調べてみると、どう考えても、【伊都国】が福岡県糸島市であるというのは腑に落ちない。博物館が言っている【対馬国】=対馬 説と、【末盧国】=松浦 説だけは首肯できる。しかし【一大国】が【一支国】の誤記で、一支(イキ)=壱岐である説はいただけない。【奴国】説は論外。そしてモンダイなのがこの【伊都国】説ですよ。
まず方角の問題❶ 倭人伝には、末盧国から伊都国へ行くには《 東南陸行五百里にして伊都国に到る 》とある。「東南」方向だ。しかし松浦=末盧国からみて、糸島=伊都国はやや北寄りの「東」の方角に位置する。残念ながら「東南」ではないのだ。また「東南」では内陸に入るので「陸行」でOKだが、松浦(唐津 説)〜糸島までなら海岸線に沿って「東」へ船(水行)で行くはず。 それで困った日本人の学者センセイがたは、中国正史『三国志』の作者である歴史家・陳寿の書いた方角は「誤記」だということにしてしまった。ヘンでしょ。本場中国人の陳寿さんよりも、なぜか日本人のセンセイのほうが漢字を正しく書けるとはね。
そして距離の問題❷ 松浦(唐津)からだと、そこから糸島まで五百里(50km)も離れてはいない。せいぜい25〜30kmくらいしかない。しかしこれまた陳寿さんの間違いである、とセンセイがたは決めつけた。【 東南陸行五百里到伊都國 】のところは方角も距離もすべて誤記だというんだから、ひどいじゃないか。陳寿さんはただのバカなのか。それなら最初から倭人伝こと『三国志魏志東夷伝倭人の条』の存在そのものを疑えよ。 注・古代史では常識になっているこの時代の「短里」に従えば、1里=約100mです。
さらに方角の問題❸ 邪馬台国の場所は、むかしから【北九州説(福岡周辺)】と【畿内説(大和中心)】に意見が分かれている。いずれにしても両者が口を揃えて、伊都国は糸島だというなら、女王のいる邪馬台国は糸島からみて「東」の方角になければならない。ところがですよ、倭人伝の後ろの方にはこう書かれている。《 女王国より以北には、特に一大率を置き諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す 》ということは、邪馬台国からみて「以北」の伊都国に一大率(中くらいの軍隊)を置いていたことになる。つまり邪馬台国は伊都国からみると「南」になくてはおかしい。伊都国の「東」方向じゃないことだけは確かだよね。【 女王國以北特置一大率檢察諸国畏憚之常治伊都國 】
伊都国が糸島ではないとすると、じゃドコよとなるが、ワタシの推理ではこうなる。末盧国=松浦(唐津ではなく伊万里近辺の松浦)から、正確に《 東南陸行五百里 》の50km東南方向をたどると、同じ佐賀県内で有明海に面した太良町の「糸岐」という地名にゆきつくことができる。これなら陳寿さん記述どおりの【伊都国】でOKではないでしょうか。「弥生海退」という地質学も念頭に入れてください。
しかし自分に都合の悪いところはすべて誤記ということにして済ましちゃうとは、センセイがたの説は「我田引水」もはなはだしいよ。特にどうしてもヤマタイ国=ヤマトにしたい畿内説学者たちは、大和朝廷天皇様が、畿内の大和や奈良あたりに紀元前の最初ッから居たことにしておきたい。日本正史『日本書紀』に書いてあるとおりにね。国立大学で給料や研究費にありつく教授センセイ、いかにも体制への事大主義者らしいよね。原発推進の御用学者にもあい似たり。
北九州説の他に、全九州説もあるけれど、これも破綻している。【伊都国】から東南(10km)の【奴国】、そこから東(10km)の【不弥国】までは、近所だからまあよいとしても、そこから「南」の【投馬国】(これは薩摩・鹿児島でしょうね)までは、船で20日間かかる。不弥国から《 南、投馬国に至る水行二十日。》注・この不弥国は海に面している場所でないとダメ。 そして次の投馬国からいよいよ卑弥呼のいる邪馬台国までは、《 南、邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。》 鹿児島からさらにそれだけ南へ行ったら、もう九州ではなくなる。 それなら海を越えて島づたいにゆく、沖縄本島北谷沖に沈んだ邪馬台国説のほうが、正確に記されていたと考えられる。ね、このほうが素直でスッキリするでしょ。
これが我田引水ではない証拠をもひとつ。倭人伝にはこうも書いてある。《 郡より女王国に至る万二千余里。》朝鮮いまのソウルのあたりに置いた魏国の【帯方郡】から、女王卑弥呼の【邪馬台国】までは、1万2000余里(約1200km)とある。世界地図帳を開いて計ってみてください、ソウルから沖縄本島まで、直線距離はピッタリ1200kmなのですよ。
上の写真は、フィールドワークしてきた、世界遺産沖縄本島[今帰人城]。ナキジン・グスクと読みます。ここが女王国以北から、《これ女王の境界の尽くる所なり》の間に書かれた21国の最後、《次に奴国あり》のナの国、ナキジンではないかな、などと楽しき空想をしています。
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