シスレーのいた村

osamuharada2011-08-23

ヴェルサイユに住んでいるSさんが、画家シスレー好きのぼくを、モレ・シュル・ロワンに連れて行ってくれた。車は緑豊かなフォンテーヌブローの森を抜け、外光派、印象派の拠点となったバルビゾンを後にし、アルフレッド・シスレーが六十歳で没するまでの十年間住んでいた、小さな小さな村にたどり着いた。
小さな城門をくぐると、百年の昔に帰るような、古風な家並みが続くモレ・シュル・ロワン。車が入ってこなければ、まだシスレーノートルダム・ド・モレ教会を前にして、通りにイーゼルを立て、絵を描いていてもまったく不思議ではない光景だ。この教会をシスレーは十二回も描いている。こないだプティ・パレで見たのも、そのなかの一点で、同じ場所から実景を前にすると、シスレーの気持ちがよくわかった。
ロマネスクと後のゴシック様式が混ざったような教会の石造建築は、表面の起伏が複雑なので、季節や天候、時間によって様々に抽象的な色合いを見せる。決して信心深くて、何度も教会を描いたわけじゃない。絵を描かない人には、光と陰、絵の具のバルールなど、この抽象の面白さがわかりにくいかも知れないな。
この教会から歩いてわずか一分ほどの通りに、シスレーの住んでいた家がある。朋友モネの大邸宅に比べたら、売れない画家だったシスレーの家はいたって質素だ。何故、売れなかったかというのは簡単な話だ。つまり好んで風景画しか描かなかったからだと思う。印象派は外光で風景を描くことからスタートしたけれど、それではあまり売れないので人間を主体に描くようになる。モネは人々の風俗やリッチな暮らしを描き、ルノアールは太めのヌードか少女を描く。ドガは、当時は春も売らなければならなかったバレーダンサーを専門に描く。シスレーの仲間たちは、一般にわかりやすい「風俗画」の画題で人目を引くイラストレーターのようになっていったのだろう。職業画家というものは、いつの時代でも変わらない。印象派のようにサロンというパトロン付きの体制派を否定したら、人気あるテーマを自ら選んで描かなきゃ食えないものね。モネ晩年の、庭の蓮池は、抽象を目指したものだけれど時すでに遅し、壁紙デザインのような絵になっている。とぼくは自分勝手に思っている。
シスレーの家から出て坂下の城壁の外は、すぐにロワン運河(上の写真)になる。しばらくゆけば広いセーヌ川とゆったり合流する。空と水の画家が、この地を離れなかった理由は、この水辺の景観を歩いてみれば一目でわかる。四季折々、夢のように美しい風景がそこにあれば、ある画家には、稼いだり、名声を得たりすることなど無意味なものとなる。都会を離れ、日常の些末さから解放され、絵を描く日々が喜びに満たされる。外光で描く画家にとって、風景の中がすべて自分のアトリエになる。きっとシスレーは風景しか描きたくなかったのだろう。キャンバスと、目の前の自然が一つになる時、画家は恍惚とし、また超然としたに違いない。
次の日に、オルセー美術館シスレーを見に行った。一部工事中のためか、一時的にだろうけれど狭い通路に追いやられ、シスレーは11点のみ。モネもピサロも、ルノアールドガでさえ、同じく照明の悪い通路に並んでいる。後期印象派ゴッホゴーギャンは、ゆとりを持っていく部屋かを占有していた。世界中からやってくる観光客しかいない美術館は、芸術を鑑賞するような場所ではもはやないのかもしれないな。シスレーの絵は、いまや高額になり過ぎて、シスレーのいた小さな小さな村には一点も残っていない。