シャンゼリゼと終戦記念日

osamuharada2011-08-13

シャンゼリゼ大通り」の真ん中あたりには、つい考えこんでしまう通りの名があります。【F・D・ルーズベルト通り】。つまりアメリカ大統領の名前なのだ。地下鉄の駅名 Franklin-D-Rooseveltにもなっているから、よく知られた名前のはずだが、誰も不思議に思わないところがフシギな気がする。
凱旋門のあるところは、以前は「エトワール広場」と呼んでいたが、いまは【シャルル・ドゴール広場】と呼ぶ。こっちはフランスの大統領だから、まあいいとして、ブランド好きがゆくシャンゼリゼの【ジョルジュ・サンク通り】は、イギリス国王・ジョージ五世の名を冠している。これもなんだか変でしょ。
あの「グラン・パレ」と「プティ・パレ」の間は、イギリスの首相【ウィンストン・チャーチル通り】があり、銅像まで建っている。何故、パリで最も有名なシャンゼリゼ大通りを横切るように並んで、米英の大統領&首相の名をつけたのだろうか? などとルーズベルト大統領の名がつくAvenueのはずれのカフェで、日本の8月15日、また終戦記念日が近づいてきたことをボンヤリと考えていた。
ルーズベルトという名のアメリカ大統領は二人(親戚)いたが、フランクリン・D・ルーズベルト(1882〜1945)のほうは、第二次世界大戦で原爆をつくらせ、マンハッタン計画を指示した大統領。広島、長崎に原爆を落とす直前に病死したので、トルーマンが後を引き継いだ。アメリカの大恐慌時代を、戦争の特需景気で救ってくれたということで、アメリカ国内だけルーズベルトの評判はいい。らしい。
実際は、白人至上主義者というか、有色人種をすべて絶滅させるつもりだったというのだから、ひどい男だ。在米の日本人を強制収容所に送り込んだところは、敵のナチスそっくりといえる。英国のチャーチル(1874〜1965)とは、戦争中に何度も会合を持ち、敗戦国の分配や、ヤルタ会談国際連合設立への画策をしていたお二人。ナチスに占領されていたフランス解放をついでに手伝ったので、そのお礼に名前を通りに冠してもらった、といったことが表向きの理由なのでしょう。
ところで、フランクリン・D・ルーズベルトの「D」ってミドルネームの略は、母方のDelano、「デラノ家」の名を継いだものなのです。このデラノのほうの祖父ワレン・デラノはユダヤ系で、中国人を麻薬でダメにして植民地化をする「アヘン貿易」によって、莫大な財産を築いちゃった、トンデモない人なのでした。人種差別も代々のお家芸だったわけだな。さらにボロ儲けしたカネで鉄道なんかも乗っ取りをしたという、かなりえげつないアメリカ財閥の家系なのです。
長くなるけど、日本史好きのかたには、まだお付きあい(興味無い方はここまでで)願いたいのですが、この祖父のデラノって人、江戸時代幕末の「ジョン万次郎」と関係があるのね。若い万次郎君の漂流中を、アメリカの捕鯨船が拾ってくれて、デラノ家がスポンサーになり、ボストン近くのニューヘブンという町で学校まであげてくれた。おっ母さんに会いたいなら、もう日本に帰ってもいいよとまで親切に言ってくれた。日本に帰った万次郎は、外国情報に詳しいバイリンガルとして江戸幕府に徴用され、出世コースを歩いてメデタシだったとさ。
というようなバカげた日本史というものを、ワタシは始めっから信じていないのね。中国人をアヘン中毒にさせて植民地にするような手ごわい連中が、同じ黄色人種の日本少年を、白人並みに無償で養育するワケがない。最初から万次郎を欧米列強のスパイに仕立てて日本に送り返したというほうが真実らしくある。情報網こそが、植民地政策では最重要となる鍵なのですよ。フジタも同じようなもんでしたね。
万次郎が帰国した一年後に、日本にやってくる黒船ペリーのクライアントも同じくデラノ家なのです。そしてペリーも、デラノの孫のフランクリン・D・ルーズベルトも、Holland Lodge No.8 New York Cityという、由緒ある?ニューヨークのフリーメーソン・メンバーでした。
終戦記念日シャンゼリゼの、ぼくのヒマつぶし話はまだ続く。戦後に、日本占領のためにやって来た、あのマッカーサー元帥は、祖父がイギリス貴族で、ルーズベルトチャーチルの二人とも、なんと遠戚関係にあったのですよ! ね、皆つながっちゃっているのです。
マッカーサーといえば、ハワイのところで書いた「黒船ペリーの旗」も思い出してやって下さいね。→[id:osamuharada:20100311]そして今日も、中国人観光客と、めっきり減った日本人が、シャンゼリゼ大通りをノンキに歩いている。今でも、植民地あつかいされている日中とも知らずにね。