藤田嗣治のアトリエ

osamuharada2011-08-04

パリ郊外、シュヴルーズという静かで美しい村へ、知人の車で行った。その帰りがけに、画家・藤田嗣治、最晩年のアトリエを見にヴィリエ・ル・バクルへ寄ってもらった。
実は、例の『1900年パリ万博』において、なんと弱冠14歳のフジタは、絵画部門のジュニアクラスに水彩画で入賞していたのですよ! フジタの絵はあまり好きではないのだが、それにしても、毀誉褒貶はなはだしき人生を送った画家が、最後にたどりついた隠棲の場所はどんなところだろう、とちょっと興味がありました。
現在は落ち着いた郊外の住宅地になっているけれど、当時は辺鄙な寒村だったところです。想像していたよりも質素で小さな家。その屋根裏部屋がアトリエなのでした。インテリアは、女性誌などに載ったら可愛い! と軽く言われちゃいそうな民藝調。しかしこれがあのエコール・ド・パリの寵児といわれたフジタ終焉の地だとは、なんだか淋しい気がしたのです。
今年の『川端実展』カタログのバイオグラフィには、1949年、フジタが日本を去る最後の日に、飛行場で別れの握手をしている川端実の写真が掲載されている。以前その話を聞いた時に、川端先生は、戦後の日本画壇が、手のひらを返したようにフジタを排斥したことに怒っていた。「あの時の藤田さんは、かわいそうだったな。」と述懐されていた。見送った画家は、川端先生と岡田謙三のたった二人だけだったという。
戦後、フジタが日本を離れなければならなくなった本当の理由を、以前調べてみたことがある。一般に言われているのは、フジタの描いた戦争画アッツ島玉砕」などが、戦後の左翼や画壇から反発を食らったからということになっている。しかしそんなことぐらいで、あのフジタが日本を捨てる理由にはならないだろう。ピカソコクトーと親交があったほどの世界的名声を博した画家が、せせこましい日本画壇やマスコミなどを気にするわけもない。
では何がその理由か。ぼくはまず、フジタ自身が「戦犯」として投獄されることを恐れての、日本脱出だったのではないかと推測しています。何故ならフジタという人は、表向きは派手な奇矯の画家だったけれど、実は日本帝国陸軍のスパイとしてヨーロッパに送り込まれた、別の顔を持つ人だったからなのです。東京芸大を卒業すると、1913年(大正2年)に、27歳で渡仏しています。藤田嗣治の父親は陸軍中将、兄嫁が陸軍大将・児玉源太郎の娘という、バリバリの軍人エリート家系です。硬派な家柄の出でありながら、軟派な絵描きなどになることを、まして父親がすすんで奨励するなんて、明治という時代を考えれば通常アリエナイ。
日露戦争の陸軍大将だった児玉源太郎は、海底ケーブル(俗称・児玉ケーブル)と無線を整備し、ついに最先端の情報戦略で、ロシア帝国バルチック艦隊を破ったといわれています。情報戦が勝利へのカギだったわけ。幼くして画才のあったフジタに目をつけたのも、その世界情報網のためでした。パリ万博への出展もその足がかりでしょう。
当時、売れもしない絵描きが海外へ行くための渡航手続きは難しかったし、経済的にもフツーの若者ではとても無理。フジタは諜報機関の密使として送られたのです。パリでたちまち有名人となることだって使命の一つだったでしょう。女たちと浮名を流し、俗物的な芸術家を演じ、エコール・ド・パリの人気者としてヨーロッパで注目を浴びる。ところが、裏側の目的は、芸術家という自由奔放な立場を利用しての、世界情勢の間諜にあったのです。パリですぐ死んじゃった佐伯祐三も、同じ陸軍のスパイなのでした。ちなみに黒田清輝が牛耳る東京芸大は、海軍の管轄下にありました。 
フジタの悪名高い戦争画をよく見れば、決して戦意高揚を鼓舞するような絵画ではないとわかる。逆に、リアルな民族崩壊をみすえた、凄惨で血みどろの救いがたき世界を描いていると思えるのです。ともかくこの絵を見たら、とても戦争へゆく気だけは無くなるよね。大政翼賛会とはほど遠くフジタは苦渋をもって日本の敗北を受け入れていたのか。または「一億玉砕」のプロパガンダを本気で支持していたのでしょうか。
考えたら誰でもヘンだなと気づくはずですが、「東京裁判」で戦犯として処刑された軍人のほとんどは陸軍ばっかりで、海軍はいない。陸軍大臣阿南惟幾は、終戦の8月15日に切腹しているが、海軍大臣の米内光政は、戦犯にもならずに放免された。最初に真珠湾奇襲攻撃を仕掛けたのも海軍の山本五十六だったことをお忘れなく。実は最初から親英米派だった日本海軍。すなわちこれが軍事的な「植民地」だという理由の一つ(また1900年パリ万博に戻っちゃうな)でもあるのね。日本海軍の始まりについては→[id:osamuharada:20080918]
私見では、日本の海軍が英国海軍に端を発しているのに比して、日本陸軍というものは、江戸時代から続くドメスティックな民族の軍隊だったということ。明治以降、日本の「陸」と「海」の対立こそが、太平洋戦争の悲劇を生んだのだと考えています。アメリカの力を借りた、実は「内戦」でもあった。というのが歴史には隠されている。こんなことを言ったら大学の先生は即クビになるけどね。
日本を壊滅に追い込んだ太平洋戦争の、藤田嗣治もその犠牲となった一人かと思えば、最晩年のアトリエは、落ち武者の隠れ里にほかならない。一の谷のいくさやぶれ、うたれし平家のきんだちあわれ…。