プティ・パレと万博

osamuharada2011-07-29

印象派シスレーがあると聞いて、「プティ・パレ美術館」へ行った。常設展のシスレーは4点。他に思いがけずマイヨール彫刻の小品数点と、ゴーギャンの陶器が3点あって、いずれも素晴らしい。数は少ない(人気作品はオルセー美術館に貸している)けれど、どれもぼくの好みを知って、待っていてくれたかのようで嬉しかった。これだけでもパリに来たかいがある。中国人でいっぱいのシャンゼリゼ大通りの喧騒をよそに、すいている常設展でタップリ楽しませてもらいました。しかも無料とはね。
ところで「プティ・パレ」といえば、お向かいのドでかい「グラン・パレ」とともに、例の1900年パリ万博の時の遺物なのであります。栄華を極めたローマ帝国をイメージした新古典主義の建築。《プティ》というわりには超巨大で、ゴテゴテと装飾過多。なんだかやたらに尊大な感じで、はじめは圧倒されてしまうが、やがて居心地が悪くなる。この無駄に大きな建築内の展示では、ぼくの好きな芸術作品はあまりにも似つかわしくないな。もっと狭くて静かな環境下で観てみたいものだが、タダでは文句も言えまい。しかしどうにもバカでかい建物だ。権勢を誇りたいだけの目的で築かれているのがミエミエなのだ。同じ1900年の万博記念にできた鉄道の駅が、後の「オルセー美術館」の建物。たかが駅なのに、あれだって大げさで、ずいぶんと偉そうだよね。1900年パリ万博というのは、当時フランスが世界一の大金持だったという証拠を示している。そして日本はどこかの植民地なのだ。
「プティ・パレ」の売店で、パリ万博の歴史についての【 Sur les traces des Exposition universelles 】という図版入りの本を買う。これは1855年から1937年の間、8回にわたるパリ万博についての本なのです。やはりなかでも1900年のが、お祭り騒ぎっぽくてやたらと仰々しい。 横長パノラマ写真がある(右の写真はその一部)。これはトロカデロのシャイヨー宮から撮影しています。セーヌ川の手前が、例の「植民地展覧会」の一部で、左の黒い部分に、樹木と日本館のエセ法隆寺の屋根が写っている。ここに見えるエッフェル塔側の左岸の建造物も、この万博後にはすぐにすべて取り壊されている。現在はスッキリと何もない公園広場です。
この頃は、まだ自動車はなく、人々は馬車か徒歩しかないのでノンビリとはしていたでしょう。レストランもカフェもキオスクも動く歩道も十分に準備され、一日がかりでゆっくり楽しめたようです。ジャポンという極東の国は、植民地のわりには、けっこうオシャレだね、などとジャポニスムにかぶれた人々もいたにちがいない。なにしろデザインの世界では、日本の古美術のモノマネに過ぎない「アールヌーボー様式」が、フランスで大流行していた頃だもんね。逆に植民地日本では、パリ万博以後、この「アールヌーボー」を愚かにも逆輸入して、さらにモノマネをしたデザイナーもいた。わが母校の多摩美をつくった杉浦非水なんて人がそう。パクリのまたパクリだよね。コロニアル・デザインもこうなると、ワケがわからなくなってくる。
やはり万博という商業主義の見本市に、純粋な芸術家は相容れないものだろう。芸術というものが、画商と広報担当の美術評論家によって操作され、投機の対象になるような下品な時代が始まったのも、1900年頃からだと思う(ちなみにシスレーは1899年没)。 カネのために芸術家が翻弄されるようでは、真の芸術は衰退するわけだ。ベルサイユ宮殿で個展をやったという現代アーチストの村上ナニガシは、リーマンショック以後の不況で評価額が下落したため、とうとう自ら作品を高額で買いとって投機価値を高めようとする「自分買い」を始めた、とパリではもっぱら評判になっているそうです。そのための借金苦におちいったとも。アーチストというよりは、まるでホリエモンだね。などとパリ在住の友人と、下町のカフェで笑い話をして過ごしました。