邪馬台国を探して

osamuharada2011-06-18

沖縄本島、北谷(チャタン)の沖(写真は北谷公園)。この先の海底20m地点に、くだんの木村説「邪馬台国」の巨大遺跡が横たわっている。地盤沈下で水没した卑弥呼の国。世紀の大発見にもかかわらず、沖縄の人ですら感心をあまり持たない、それが残念。
今日も、沖縄は普天間飛行場への、危険なオスプレイ配備問題で揺れている。写真の北谷の隣が、その普天間なのです。「現代」がきびし過ぎるので、誰も二千年前の「古代」などに興味を持つ余裕はないのでしょう。
次に、この湾を見下ろす山側の中城(ナカグスク)に登ってみた。広大な湾の中の海上に、もしあの邪馬台国があったとしたら、絶好のロケーションだったというのがよく理解できる。倭人の住む邪馬台国群の中心にそびえたっていたはずだ。サンゴ礁の湾は、透明なエメラルドグリーンの海で、サンゴ石灰岩で構築されたピラミッド状の、神殿か城郭のような建造物は、陸地側からは、白く輝くシャングリラに見えたことだろう。
遠浅のサンゴ礁は、干潟だったはずで、潮の満ち干では、海上に浮かぶ邪馬台国への往来も可能だったのではないか。『魏志倭人伝をよく読むと、後半の女王国の記載中にこうある、《 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なる 》と。
邪馬台国が、大和説や九州説の内陸にあったとしたら、「海中」で、しかも「洲」の上の「島」で、独立して「絶在」するなどとは書けないはずだ。【 参 問 倭 地 絶 在 海 中 洲 㠀 之 上 】。それに、ある時は消えて、またある時はつながって歩いてもゆけるから【 或 絶 或 連 】という場所なのではないかなと思う。
干潟にあったなら、フランスのモンサンミッシェルのような感じかな。やがて海底に没した邪馬台国は、後世になって、浦島太郎の「竜宮城伝説」として記憶されたのではないだろうか。「乙姫さま」は卑弥呼か、宗女の壱与か。海底遺跡には、亀のような石造物や、亀甲デザインまである。
ぼくのフィールドワークは、陸に残るグスクや御嶽(ウタキ)を見て、さらに沖縄西南端の、与那国島沖の海底遺跡を、観光用潜水艦で見にゆく予定(海の透明度が高い時期に)。こちらは、考古学的には、北谷沖の海底神殿よりも古く、木村説では秦の始皇帝が使わした「徐福」伝説と重なる話なのです。こちらも壮大な空想力を必要とするから、もっとベンキョウをしなくては。
ブログを読んで、最古のガールフレンドPyonkoさんは、本屋をあちこち探して、やっと木村政昭先生の『邪馬台国は沖縄だった!』を買ってくれたものの、何コレ、ぜんぜん読めないわよ、ムズかしすぎるじゃない!と30分で投げ出したそうです。もっとも邪馬台国大和朝廷だとばかり思ってた人だから、最初からムリだなと、特にススメてはいなかったのですが。