コリン・ウィルソンの小説

osamuharada2009-09-17

今日は天気が良かったので、古い本の虫干しをした。ダンボール箱の底から、二十代はじめに愛読していた本が出てきて、懐かしかった。青春の一頁?ってやつですね。コリン・ウィルソンの小説『暗黒のまつり』新潮社刊。 その前に実存主義評論集『アウトサイダー』を読んでファンになっていたのです。小説では、ウィルソンの分身のような主人公「ジェラード・ソーム」にすっかり染まって、そういえば若かった自分は、このソームになりきっていた時期が確かにあったよなァ、などと思い出しては苦笑した。昔からの癖で好きな部分の頁が折ってある。そうかこんなところが良かったんだなと、これもまた二十代が懐かしい。小説のなかのジェラード・ソームの会話の一部に鉛筆で傍線が引いてあった。↓
《それどころか、ぼくの考えでは、芸術家たる者はみなだいたい同じような夢をもっているんです、地上を天国に変え、人間を不滅の存在たらしめる夢です。それにひきかえ、そういうことが来週あたりに起こってくれるだろうと考えるのは、どうも虫のいい希望的観測のように思えるんです。ぼくらは二人とも信じているんです、世界を楽園に変えたければ、自分でそれをやる以外にないのだ、と。》 というようなところ。いいね、若い季節って。
ついでに訳者である中村保夫の後書きを読んでいたら、若い自分が何故この小説に惹かれていたのかが、今さらながらよく解かった。 推理小説のスタイルを借りているこの小説は、《既成概念に捉われない楽天主義的な実存主義生活者ソームの放浪記としてこれを読むと、安易な比喩だがヌーベル・ヴァーグの映画を観ているような、軽く突き放した最先端風俗絵巻が展開されて、なかなか興味深い。叙述の仕方はすこぶるぶっきら棒で、現実の時間に沿った流れが全編を支配し、場面によっては人物の動作や台詞が逐一克明に、殆んどなんの潤色もなく描かれ、時には冗長と思われることさえある。が、これは作者が文章のなかにもう一度なまの現実を再現したがっているための、かなり意識的な文体ではないかと思う。特殊な叙述法や構成などの美学方式によって芸術作品としての現実感を創りだすのではなく、現実そのものの現実性をもう一度確立し、定着しようとする意思がとにかくそこに働いているように見える。「実存主義の根本的な経験は、現実ともう一度むすびつく感覚だ」と言うウィルソンである。》
むかし昔のことだけど、ペーパーバックで原本を読もうとまでしたのだが、当然ながら途中で挫折しています。 しかし若い頃に熱中して読んだ本というものは、懐かしくて、しかもどこか恥ずかしいもんですね。