法隆寺百済観音の謎

osamuharada2008-07-06

百済観音というキーワードで、毎日のように2,3人の方が検索されて、当ブログへ来られる。[id:osamuharada:20061225]  あまりネットで他に書かれていないせいでしょう。 百済観音は、法隆寺にあまたある仏像中で比類なき存在であるにもかかわらず、その出自が全く解からない。(ウィキペディア百済観音をひいて読んで下さい) いつ何処で誰が造ったか未だ不明なのです。もとより法隆寺にあったのかどうかさえわからない。しかし解からないまま国宝になっている。パリのルーブル美術館に日本を代表して展示されたこともある。 ね、実物をご覧になってその抜きん出た芸術性を感知しえた人なら、誰だって由来を知りたくなるでしょ。しかし回答はゼロという、日本美術史上の闇に突き落とされる。現在ぼくは仮説を立て百済観音の謎に挑戦している最中であります。
もしこの謎にトライしたい方がいたら、百済観音が置かれている法隆寺そのものの謎を、まずご自分で解明されることをお薦めします。最有力のテキストがコレです、米田良三著『法隆寺は移築された』。古代史好きの人なら言わずと知れた古田武彦の「北九州王朝説」を踏まえ、プロの建築家である著者が実証的に解明しています。ぼくは十六年前に読んで、目からウロコが落ちました。その後さらに研究は進んでいますが、日本史アカデミズムからはモチロン無視され続けていますね。日本史そのものを塗り替えなくてはならない説だから、御用学者はクビになるのを恐れて皆で黙り込むだけです。ともかく法隆寺は謎のまま日本初の世界遺産に指定されているのです。
写真の本『法隆寺は移築された』の開かれたページにあるのは、上が法隆寺西院の正面から見た伽藍配置図。 ぼくは法隆寺の参道を歩き進んでいった時に、眼前の奇妙な風景に驚いた。五重塔も、右の金堂も、手前中心にある大きな中門の背後に重なって見える。さらに中門前まで前進して見上げると、塔も金堂の屋根も中門と一体化して醜悪な景色となって見えるので気分が悪くなった。建物がくっつき過ぎなんだよな。 建築デザインにセンスのある人なら、誰だってこんな醜いレイアウトは美的に変だぞと思うでしょ。これら世界最古の木造建築はそれぞれ素晴らしいのだけれど、なのに何でまた広い敷地に寄り添って建つ必要があるんだろ?と怪しむ感性を持っていただきたい。ページ下の伽藍配置図が米田仮説で、これが本来はどこにあったものか?を、この本では実証的に究明しているのです。
米田説に於ける百済観音の由来については、ぼくには首肯できないこともあるのですが、この本が日本美術史上のタブーを超えた大問題に触れている事だけは確かです。勇気ある研究者に頭が下がります。

法隆寺は移築された―大宰府から斑鳩へ

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