湯島シンスケの炒り豆腐

osamuharada2006-06-16

若い頃、日本橋「まるたか」という居酒屋に、酒飲みでもないのにハマっていたことがあったのは、そもそもが、かつては久保田万太郎ひいきの店だったからという単純な理由からでした。やがてそこの店の主人(志ん生に似ていた)も亡くなって、オカミさん(こっちは小さん似)と古い女中さん二人っきりになってしまっても、ぼくはまだ通い続けましたが、やがて二人とも老齢になり、跡継ぎも無いまま閉店してしまいました。もう20年くらい前になるでしょうか。
どんなお店だったかというと、安藤鶴夫著「ある日、その人」という随筆集に詳しく、その一節に「お通しに煎りどうふだの、味噌まめだの、冬だと、煮こごりなんかを出したりするいまどきめずらしいうちで、いかにも下町らしい路地の表に、柳の枝がたれている腰掛けの酒亭である。」とあります。さらに「万太郎が、銀座の岡田をもうひとつ世話にしたうちという名評を下したが、まるたかとはそんなのみやなのである。」と、今もある銀座「はち巻岡田」に比較して語っています。世話にしたとは、歌舞伎の世話物からきている江戸言葉で、庶民的なという感じかな。
そのまるたかの壁に、寄贈された古い鏡が掛っていて、そこには古ぼけた金文字で「シンスケ」と書いてありました。オカミさんに聞いたら湯島にあるお店ですよ、行ってごらんなさいと教えられました。それから時々シンスケにも行くようになりましたが、こっちはまるたかより大店で、界隈の年寄りや酒好きオヤジ連、おすもうさんなどでいつもいっぱいの、どこか本格的な酒亭です。20代若造のぼくなどには何となく居心地が悪かったので、まるたかが無くなっちゃってからの40代頃からよく行くようになりました。そこで万太郎が大好物だった、まるたかの懐かしい「煎りどうふ」(安鶴表記)と寸分たがわないシンスケの「炒り豆腐」にめぐりあうことができたのです。
ぼくのような東京の下町育ちなら、炒り豆腐は子供の時分から慣れ親しんでいた、つましい惣菜でしたが、長じて酒の肴にしてみると、これほど旨いものはそうないと思えるものになってきました。東京というより江戸からの味だと思います。豆腐に鳥と卵、ゴボウに椎茸、ネギ、人参、さやえんどう。簡単な材料をこれほど旨く調理するのはやはりこういう古い下町の店だからこそなのでしょうね。
今日、ほろ酔いでシンスケの帰りがけに、湯島天神の崖下(女坂と男坂の中間)にある、もと万太郎宅だった家(まだ健在)の前を散歩していたら、万太郎が飼っていた猫のトラにそっくりの、ひとなつっこい野良猫に巡り会いましたよ。あのこはトラの子孫に違いない。
湯島のトラ [id:osamuharada:20071226]