歌舞伎座の前を歩けば

ぼくの仕事場は築地なので、帰りはいつも歩いて、何はともあれまず銀座に出る。そして銀ブラするのが習慣になっています。途中、歌舞伎座の前を通れば、その月の演目を眺めるのも習慣。しかしこの10年くらいほとんど芝居は観ていません。
ぼくの歌舞伎遍歴は5,6歳の頃からで、最もイレ込んだ10代半ばの頃は、十一代目市川団十郎が出現した時でした。その江戸歌舞伎の真髄にふれた体験は、いまだにそれを超える事がありません。そのくらい感動したんですね。今ではレコードですっかり暗記してしまったその『助六』の実況録音を聴く事によって、ありありと往時の姿かたちは目に浮かんできます。ぼくは今の十二代目とは中学が同級生でしたので、父兄会に来た海老サマ時代の十一代目に、我々のおふくろ連が狂喜したという楽しい思い出もあります。『勧進帳』の「弁慶」では、それまでの当たり役といわれた先の尾上松禄や松本幸四郎演じる「弁慶」の理詰めの芝居のつまらなさを一蹴して、十一代目の弁慶はまさに霊験あらたかなる江戸荒事の舞台の顕現でした。ただ花があるだの、上手いだのを通り越して、それは神懸りというようなものでした。『鳴神』、『毛抜』、『暫』の舞台、「切られ与三」、「直侍」、「毛剃九右衛門」、「小猿七之助」といった役の、どれもこれも役に扮した団十郎が現れただけで、別世界に引き込まれてしまう強い磁場のような役者でした。しかし襲名からわずか4年たらずで逝ってしまったので、ぼくはその後、ポッカリと穴があいたようで歌舞伎から遠のいてしまいました。その後再び歌舞伎に戻る事ができたのは、若い坂東玉三郎が世に出たからです。『鳴神』での「雲の絶間姫」や『桜姫東文章』の「桜姫」の気品と色気。今の仁左衛門片岡孝夫時代の70年代から「孝玉」コンビでは、世話物、時代物のほとんどを観ました。玉三郎からは女形のミスティックな美しさ、孝夫からは上方歌舞伎の和事「ぴんとこな」の面白さ。そして市川猿之助からは芝居よりも、その舞踊に深く感銘することができて幸せでした。もう一度、猿之助が踊る「三番叟」を観たいけれど、だいたいぼくの歌舞伎遍歴は10年くらい前で終わっているようなのです。今度の海老蔵襲名は、口上での「にらみ」というか瞬間芸のみが、近頃まれの歌舞伎らしさだったけれど、芝居は十年早いオソマツさ。寝正月の退屈さから、昨日のテレビで観てしまった現幸四郎の「魚屋宗五郎」のちっとも酔ってるようには見えない酒乱の演技(演技というより学芸会)、吉右衛門の「石切梶原」の風格の無さとクサイ臭い芝居。友達が言っていた雀右衛門マイケル・ジャクソン顔(整形くずれが)というのが番組で一番の見モノでした。というようなわけで、そろそろぼくも立派な「団菊じいさん」を襲名する時がきたようであります。