映画評論家

osamuharada2012-09-15

近頃の映画評論家が書いたものは、映画の宣伝広告には必要でしょうが、たいがいアテにならないから見る前には読まないことにしている。つまらん映画を、ああだこうだホメたりケナしていれば、もしかして見方によっては面白いのかな?と勘違いして、見てみたら大損したこともある。それに評論家の書きっぷりが面白いことはあっても、つまらん映画は、どう言おうがつまらない。評論家稼業も大変な時代ですね。映画はとっくに斜陽産業になっていることが、何となくわかるだけだもの。
戦後の映画黄金時代には、運よく評論家たちも〈本気〉で面白い映画について語っていたような気がする。名作に遭遇すれば打ち震えるような感動が読者に伝えられ、読む人を映画館に走らせた。見た後に読んでも、あっそうか、やっぱりこれにはそういう工夫があったのか、と興味が倍増した。それに、面白い映画は、どう言おうが面白い。あんなに幸福な映画の時代は、もうやってこないんだろうな。
その映画黄金期である’50、’60年代に、十代だったぼくの好きな映画評論家は、荻 昌弘さん(1925〜1988)だった。いつも『スクリーン』という大衆的だけどちょっとオシャレな映画雑誌で読んでいた。映画に対する感動の振幅が、演劇評論家安藤鶴夫(陰で感動スルオと呼ばれた)に似たタイプだったと思う。演劇と映画の差はあるが、ぼくは二人の評論のファンだった。両者とも〈感動〉を解りやすい言葉に変換できる評論家だった。こっちはまだ十代だったから、ペダンチズムの偉そうな評論家は嫌いだ(今でも)。一見難解そうなヌーヴェル・ヴァーグ映画の評論も、荻さんの手に掛かればいとも軽やかで解りやすい。理屈抜きで、素直に感動したってぜんぜんOKなんだ、と誰でも納得できちゃう。
リアルタイムで観た『太陽がいっぱい』では、初めて〈映像美〉というものにシビレたが、それが名匠アンリ・ドカエ【 Hanri Decae 1915〜1987 】の撮影によるもので、どういうふうに凄いカメラマンなのか、解りやすい荻さんの評論で開眼し、映画を〈映像〉で見る楽しみ方を教わった。映画は視覚の芸術であること。 例えばこんな感じ《 私はこれまで「死刑台のエレベーター」「恋人たち」「いとこ同士」「大人は判ってくれない」「彼奴を殺せ」「二重の鍵」と、このカメラマンの仕事を見てきて、いわゆるヌーヴェル・ヴァーグは、実はその成果の半ばを、この人の才能と感覚に、返さねばならぬのではないか、と思ったこともある。その考えが、あながち不当ではなかったことを、この「太陽がいっぱい」のドカエは、教えるだろう。》《 この秀作は、まさに、クレマンという映画の俊才と、ドカエというカメラの英才の、格闘と合体から生まれた火花だ。》
その懐かしい 荻 昌弘 著『映画批評真剣勝負』が出たので読んでみた。何度も観た映画ばかりだが、またすぐにでも見たくなる。これなら〈読んでから見る〉でも損しない。

映画批評真剣勝負 ぼくが映画に夢中になった日々《作品鑑賞篇》 (SCREEN新書)

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