まぼろしではない邪馬台国

osamuharada2011-05-05

くだんの「沖縄・邪馬台国説」にハマってしまい、沖縄本島の南、由緒ある玉城(タマグスク)の地に住む友人を訪ねて、古代遺跡めぐりをしています。現地でフィールドワークをすればするほど、この近年の大発見に魅せられてゆく。
拙著『ぼくの美術帖』のテーマは、【一万年間続いた縄文時代の、原日本人が持っていた「縄文的美意識」は、我々の遺伝子の中に連綿と組み込まれて、その後二千年間絶えることがなかった。】という日本美術史論でした。
最近発見された、沖縄本島沖の巨大な海底遺跡が、木村説の「邪馬台国」であったとするなら、ぼくのテーマである「縄文的美意識」のほうも、だんぜん話が面白くなってくる。
弥生時代になって、縄文時代は終わったかのように日本歴史では編年されているけれど、この沖縄には、弥生時代の考古学的要素はほとんど出てこない。むしろ縄文時代的な文化が、なんと十二世紀までは続いていたという。
また卑弥呼が生きていた三世紀は、銅や鉄の武器と農耕奴隷文化の弥生時代でした。しかし沖縄と同じように、『魏志倭人伝』には、どう読んでも卑弥呼が住む「邪馬台国」の記述に、弥生時代的な要素はあまり出てこないのです。
勝手に解釈すると、沖縄の海底20mに地盤沈下した「邪馬台国」は、弥生土器で編年された弥生時代の西日本とは別の国。縄文時代からストレートに発展してきた国だったことになる。つまるところ「縄文的美意識」は、沖縄・邪馬台国倭人に引き継がれていたことになる。
さらに「邪馬台国」の雄姿が海底に没した後も、黒潮海流に乗って太平洋岸を北上し、「縄文的美意識」は南九州、四国、紀伊半島、富士山周辺にまで伝播していったものと考えられる。ちょっと調べただけでも、伊勢神宮のすぐ横に「玉城」(沖縄ではタマグスク)という地名がありますよ。玉城は沖縄の女王アマミク(またはアマミキヨ)の上陸地点であり、伊勢神宮天照大神(アマテラスオオミカミ)との関連性をうかがわせる。
沖縄には、サンゴでできた琉球石灰岩で築いた「城」(グスク)が、四百以上も存在している。すごい数ですね。「邪馬台国」に比定されている海底の遺跡も、グスクとまったく同じ形状をしていて、水深20mのところから立ち上がっている。長径900m×幅200mと巨大な遺構だ。どんなカタチで、どんなものが発掘されているのかは、ぜひ木村先生の著作を見て、読んでくださいね。ビックリ!の連続ですよ。
それにしても『魏志倭人伝』をちゃんと読めば、中国人は「邪馬台国」の位置をよく知っていたのがわかる。有名な邪馬台国への行き方を書いたところとは別に、後のほうで、【 その道里を計るに、当に会稽の東冶の東にあるべし。】とありますよ。当時の中国の会稽(かいけい)郡は、今の紹興県。そのなかの東冶(とうや)という所は、今の福州のあたりです。世界地図帳を見てください、福州から海をこえて「東」へまっすぐたどってゆけば、ドンぴしゃり沖縄本島にぶつかっちゃう。【 計其道里當在會稽東冶之東 】 ほんとに沖縄本島邪馬台国は、真東にあたるのです。
倭人伝に出てくる国々を、沖縄の地名で探して歩くフィールドワークも楽しい。玉城のすぐ隣にある「百名」(ヒャクナ)という地名は、木村先生が「狗奴」(クナ)国に比定されている。ぼくは、百と名という文字はずっと後世のアテ字で、本来の「ヒャクナ」は、沖縄の読みで平(ヒャ)と、狗奴(クナ)だったのではないかなと考える。平安(ヒャン)だったら、古代ユダヤ的な発想になるな、とさらに想像力が湧いてくる。
ちなみに岩波文庫魏志倭人伝』の「狗奴国」の注釈では、狗奴を≪熊襲であろう。クマソは球磨(Kuma)阿蘇(Aso)のつづまったもの。≫などと書いてあるのね。九州説の学者は、どうしても邪馬台国群を九州内に置いときたいワケだな。我田引水もはなはだしいよね。クナとクマじゃぜんぜん違うだろ。というような探偵団ゴッコをしながらの、さすらい旅を続行中です。