亀寿の茶碗

osamuharada2009-03-30

先日、銀ブラをしていたら、茶道専門の骨董屋さんで宮田亀寿(120年位前の京都清水の陶工)の煎茶茶碗をみつけて、ラッキー!とばかりに即購入。煎茶道の本場は西日本であるし、宮田亀寿のような一代の陶工のものは関東ではめったに出ませんと、千葉が本店の若い骨董店主さんのお話。ぼくは亀寿の染付け南画(文人画)の絵付けが特別に好きで、いくつかを愛用していたのです。一陶工にしては、実に絵がうまいのです。何度見ても見飽きるということがない。この安物デジカメ写真では再現できないのが、亀寿独特の呉須(ブルー)の色彩で、ほんとはラピスラズリを刷いたような輝きのある群青色をしているのですよ。そしてこの茶碗には「小笠」か「有明」という煎茶の味覚が、思ったとおりにピッタリと似合ったので、後でとても嬉しかったなァという、ただそれだけの話です。
北園克衛の「陶芸雑感」と題したエッセイに、こんなコトが書いてありました。《 私は率直に言って、皿や壷よりも茶碗に興味がある。多分それは私の生活に一番近いせいであろうし、また経済的にその程度のものにしか可能性がないことにもよるからであろう。こういう意味では、私はあくまでリアリストであるかもしれない。しかし、そうしたリアルな世界で陶芸品を愉しむことがわるいことであるとは思わない。むしろ茶人が井戸や天目の茶碗を愉しむように、一介の詩人である私が、たえず身辺にあらわれてくる煎茶や香茶のための茶碗の趣きに気を使うことこそ自然であるというように考えるのである。》
絵描きのハシクレとしては、ぼくも同じ想いで煎茶の茶碗を好んでいたので、わが意を得たり。  そしてまたこうも書いてありました。《 「お茶を飲む」ということは、茶托の上にのっている液体を飲むというだけのことではないらしい。自分で茶碗を選び、自分で洗い、自分で湯を沸かして、自分で茶をいれて、そして飲むという一連の行為全体をひとまとめにしたもののように思う。すくなくとも、私においては、そういう場合にはじめて、自分がお茶を飲んだという気分と満足を愉しむことができるように思う。》 お流儀もお家元も無い、独り自由気ままに喫する煎茶。そうか、昔からヤツガレも正しく北園流?であったのだ。というようなことを再確認したわけであります。