ペーター佐藤 1979年

osamuharada2016-04-14

仕事机の引き出しの隅から、〈 1979年 〉製の 懐かしい二つのポストカードが出てきた。ひとつはペーター佐藤、最初の個展【 VENUS 】のもの。ぼくがデザインを頼まれたので、先にこんな文字組レイアウトと特色指定のうえで、ペーターに線画を描いてもらった。これはポスターと共通のデザイン。サブタイトルは「佐藤憲吉リトグラフ展」とあって、ニューヨークへ渡る直前まではこの名前を使っていたのがわかる。南青山の「グリーンコレクション」というギャラリーにて1979年4月16日から28日まで。
もうひとつデザインしたカードは、パレットクラブ最初の展覧会【 NUDE 】(みなヌードを描いた)。こちらも1979年の 5月25日から31日まで。場所は原宿の「ギャラリー伊藤」。写真は仲良しの小暮徹さん。ペーターの仕事場に集まり、思いつきでヌード型の曲線定規をなぞってペーターが描いたものを撮ってもらった。パイプはその日たまたまぼくが持っていたもの。→ http://osamuharada.tumblr.com
ペーターが亡くなった次の年(1995) に、安西水丸さん、新谷雅弘さん、とぼくで監修した「ペーター佐藤作品集」【 PATER 】(PARCO出版)。そのなかで水丸さんはこんなことを書いている。《 一番印象に残っているのは1980年前後だ。とりわけパレットくらぶが発足した1979年頃のことはいろいろな思い出になって残っている。 パレットくらぶのネーミングもペーターの口から出たものだし、当時は彼の神宮前のオフィスで明け方まで話し込んだりしたものだ。パレットくらぶのみんなで京都旅行をしたのも1979年だったと記憶している。暑い日の京都で、でもぺーターはいつも一番元気だった。南禅寺の山門に上がった時、彼が欄干に手を置いたら、組み木の部分がぽろりとはずれてしまって、「あっ、ペーター、国宝を壊しちゃったぞ」ってぼくが言ったら彼はとても困った顔をした。彼にはそんなすごく真面目なところがあった。と同時に大胆なところもあった。 ぼくが犬恐怖症なのを知っていて動物好きの原田治といっしょにいつも歩きながら犬に気を配ってくれたりもしてくれた。笑われるかもしれないが、これはぼくにとっての大問題だ。 いずれにしてもペーターはぼくらのなかでもいつも若々しく元気だった。そして絵を描くことをこよなく愛しており、そこに唯一自由を見出しているような人だった。》
この年の夏からペーターはニューヨークへ仕事場を移した。ペーターはニューヨークへ行った理由をこう語っている。《 ‘77年以来の過激な仕事量がたたって疲れが出てしまったこと、またある意味で行き詰まりを感じ始め、息苦しくなっていたこと、ニューヨークという都市に新しいムーブメントを予感し、自分もその場にいなくてはいけないという思い込みが激しくなって来ていたこと、等々の要因が重なって行動に移したのだった。》とあります。水丸さんのいうペーターには「大胆なところもあった」のひとつでしょう。
さらにペーターは、《 ニューヨークに着いてみると、大きな書店のウィンドウには自分の作品が表紙を飾っている『 エアパワード 』が並び、ペーパームーン・グラフィックス社のグリーティング・カードがブームで、自分のカードもその中に並べられていたのだ。まるでニューヨークがタイミングを合わせて、ウェルカム!と両手を広げて待ち構えていてくれたような錯覚に陥るのだった。到着した晩に聞いたトーキング・ヘッズのLP「フィア・オブ・ミュージック」の曲は、音楽がすべての文化をリードしているという確信を、突然抱かせてくれた。そこで、この1年間の目標を音楽を聴くこと、できるだけたくさんの人の集まる場所に居ることと決めた。トーキング・ヘッズデヴィッド・バーングレース・ジョーンズ、デボラ・ハリー等々、この1年間くらい人に会ったことはなかった。》と回顧していました。1979年、ペーター佐藤 三十四歳。