冷やむぎ

osamuharada2016-08-03

真夏の昼どき、「冷やむぎ」だけはかかせない。コレなくしては、ぼくの場合は盛夏をやり過ごせない。というくらいハマっているのです。
もとより素麺も饂飩も冷麦も、原材料はまったく同じもので、ただ〈麺の太さ〉がわずかに違うだけの差ですが、どうしても夏の昼飯定番は、冷やむぎに限る(と勝手に決めている)のです。麺の太さとコシにこだわっているともいえますね。太さで味覚や清涼感まで変化するところが面白い。
備忘録を振り返れば、ちょうど十年前にも夏の冷やむぎ宣言をしていました(ヒマですね)。→ [id:osamuharada:20060624]  ヤツガレの還暦から古稀までの間。愛用の谷道さんの吹きガラスだって使い込んでからすでに十年。しかし好きな食べ物は、トシくっても、あんまりは変わらないもんなのですね。夏季限定ではあるのですが…。 この写真は、気に入っている冷むぎの銘柄パッケージです。徳島県三重県産。手延べなので微妙に太さ長さが違っている。ひと夏分を、いつも箱買いしています。
   冷 麥 の 三 箸 が ほ ど の 涼 し さ よ   万太郎

クーラーバッグ

osamuharada2016-07-30

クーラーバッグは夏の必需品だけれど、買い物用だからデザインで選んだりはしなかった。食料調達の帰りに冷やしておければそれでいいもんね。しかし銀ピカのアルミ製や、発泡スチロールの水色や白のボックスに入れたんじゃ、せっかく産地を選んで買った食材もマズそうに見えちゃう。業務用だから何だっていいようなもんだが、持ち歩くのに元グッズデザイナーとしては、どこか不満足なままだった。というようなワケがあって、先日たまたま、銀座のソニプラで、藤の籠をビニールに写真プリントしただけのクーラーバッグを見つけて、ひと目惚れしてしまったのですよ(この写真)。藤で編んだ籠のフェイクになってるところが、ちょいと POP ART していて微笑ましいでしょ。軽くて、ジッパーを開ければ中は銀ピカの、保冷剤を入れれば完璧なただのクーラーバッグです。これなら夏は玄関の片隅にも置いておけるな。たまたま見つけた安物だけれど、ぼくの今夏「グッドデザイン賞」です。
ところで銀座は数寄屋橋交差点角の SONY PLAZA も、もうじきソニービルの建物ごと壊されちゃうそうですよ。ドレミファの音の出る階段もなくなる。 60年代後半にできた当時は、日比谷に古くからある AMERICAN PHARMACY と同じく、ヤツガレにとってはフランチャイズだった。当初は店内にソーダファウンテン風の大きなカウンターがあって軽食もできたっけ(旨くはなかった記憶あり)。扱う商品は、欧米の輸入品が中心で、初めは日本製をほとんど置いてなかったと思う。やがてオリジナルグッズを出し始めた頃から、つまらなくなって足は遠のいてしまった。そして久々に通りがかって買ったこのクーラーバッグ (中国製) が、懐かし銀座ソニプラでの、最後の買い物になってしまったな。

Google Earth で見る

osamuharada2016-07-21

ネットの発達で、むかしは考えられなかったものが簡単に見られる。Google Earth に島のアトリエの住所を入れてみたら、空中から眺めた景色が写っていた(この写真)。近寄ると、中庭に椰子の木がある白い小箱のようなものがアトリエなのです。周囲はどこまでも一面の樹木に覆われ、道路はすでに隠れて緑のトンネル状態です。これより北側は、山へとゆるい緑の傾斜が続き人はどこにも住んでいない。三十年も前から何も変わらぬ景色のはずだけれど、あらためて上から見せられると、我ながらもの凄い僻地にアトリエを建てたもんだなあと呆れてしまうね。これじゃ「偏屈」「厭世家」と呼ばれても返す言葉がない。島の人たちからも、よくあんな所にね、とビックリされる。ヤツガレは大自然に囲まれた「楽園」のように思っているのだが、フツーの人はそう考えてはくれないわけよね。H.D.ソローみたいに思われてるのなら、それはそれで嬉しいのだが。
三階の窓からの眺め。夏になってからはカラスザンショウの木の上部が黄色い花畑のようになり、日中はいろいろな蝶々がやってくる。優雅なクロアゲハ、黒に翡翠色が美しいアオスジアゲハ、紋付羽織のようなモンキアゲハ、黄色い虎模様のキアゲハ。各グループが交代で四六時中、木の花の蜜を吸いにやってくる。ウグイスは近くでよく鳴いているのだが「ホー・ホケキョ」ではなく、何故か「ホー・ホケホイッ!」と島の方言?で鳴くコが居付いている。昼風呂や昼寝のBGMにウグイスの美声は長閑でいいものです。リスも蝉も遠くで鳴いている。海に囲まれた島の朝晩は涼しく、昼は窓に簾をさげるだけでいい。クーラー嫌いのトシヨリですが、なんとか熱中症にならずに生き長らえています。島全体が見えるまでグーグル・アースを引き上げると、すぐにアトリエは緑の森の中に消えてしまった。

小村雪岱の本

osamuharada2016-07-13

このBlogの右肩に、拙著の写真を二冊かかげていますが、二つは別のカテゴリーの本なので、初めてのかたにちょっとだけご説明。『 OSAMU GOODS STYLE 』は、ぼくの稼業であるイラストとデザインの本。かたや『 ぼくの美術帖 』のほうは、仕事ではなく個人的な趣味の本なのです。イラストレーターは「職業」で、古今東西の美術や美術史について書いたものはヤツガレの「趣味」というわけです。
さて、その遊びゴコロの「趣味」のほうでは、以前ぼくもお手伝いをしたことがある『 芸術新潮小村雪岱 特集 』が、新たに加筆され一冊のヴィジュアル本として刊行されました。芸新編集のときは、雪岱装丁本の驚異的なコレクター平田さんと、当時の名編集者 三好さん、それにぼくのほぼ三人でつくった特集号でした。楽しみつつ趣味の世界を大いに満喫させてもらっちゃいました。ぼくは雪岱の〈新聞小説の挿絵〉と〈舞台美術〉についての解説文を(わりとマジメに)書いています。若いイラストレーター(挿絵画家)にも読んでいただきたい。その芸新特集号の頃→ [id:osamuharada:20100127] → [id:osamuharada:20091227]
思えばむかし拙著『 ぼくの美術帖 』に小村雪岱について書いた頃(30代半ば)は、戦前に亡くなった挿絵画家 雪岱のことなど、世間ではすっかり忘れ去られていた時代なのでした。いまこうして一般向けに廉価版でムック本が出版されるとは、その当時は想像もつきませんでした。 ぼくの持ってる雪岱作品のごく一部をTumblr に載せてみました。すべて精緻な木版刷りです。→ http://osamuharada.tumblr.com/

意匠の天才 小村雪岱 (とんぼの本)

意匠の天才 小村雪岱 (とんぼの本)

ウェスタン文字

osamuharada2016-07-04

弥生美術館では「オサムグッズ」以外にも、絵本や雑誌、レコードジャケットなどもオマケ展示しています。このTシャツも、実は孫が通っていた幼稚園に頼まれて描いたものなのです。園児だけでなく先生や親兄弟用にいたるまで、サイズもカラーも豊富につくってあります。いまでもご愛用いただけているそうで嬉しいのです。祖父のヤツガレも(家でのみ)着用しております。
このデザインもまた、趣味のロゴタイプを全面的に押し出してつくっちゃいました。キャラクターのほうの絵のアイデアは5分で思いつきました。そして幼稚園の名前の英文ロゴには、元気のいい子供たちに合わせて、アメリカのウェスタン文字を選んで配してみました。これは十代の頃から好きだった西部劇のタイトルや、劇中のポスターなどでよく見覚えていた英文字なのです(WANTED DEAD OR ALIVE 指名手配のポスターですね)。ウェスタン文字には歴史的に様々なヴァリエーションがあるけれど、どれも太陽の下で、元気がいっぱい溢れ出てくる Optimistic な書体群なのです。シンプルなものからデコラティブなものまで、いずれも西部劇!という感じ。それにブルーグラスカントリーミュージックのレコードジャケットにも多用されている、いかにも MADE IN USA な書体。たぶん園児の親御さんたち世代でも御存知ないでしょう。つまりこれは超個人的なノスタルジー趣味で手描きしてしまったわけですよ。
オサムグッズでも、ウェスタン・スタイルの図柄を沢山つくりました。カウボーイやテンガロンハット、サボテン、投げ縄に馬蹄、ピストルや保安官バッジなど。どの図柄にもウェスタン文字が堂々と使えて、ロゴタイプ好きとしては大満足でした。バンダナにキャラクターを配するデザインなども我ながらちょっと悦に入ったウェスタンものでした。しかしこれは個人的な趣味に走り過ぎたかなと今になって思います。営業からはまたこの道楽モノめが、と(陰で)文句は大いにあったはずです。お客さんにデザインを説明するのも難しかっただろうしな。この他に和物柄(西洋人から見た日本風)や、シノワズリ(中国柄)、パリ風やハワイアンものなど、個人的趣味でシチュエーションをまず決めておいて、仕上げはそれぞれの雰囲気を持ったロゴタイプでもって締めくくるのがぼくの得意ワザなのでした。写真は孫の幼稚園Tシャツ(小学生になっても着ている)です。→ http://osamuharada.tumblr.com/

紙袋のデザイン

osamuharada2016-06-25

展覧会準備のため、アトリエの物置小屋で資料の探しものをしていたら、ヨレヨレになった古い紙袋が一枚でてきました。とても(個人的に)懐かしい。これは Osamu Goods のデザイン版下を入れるために特注していた紙袋です。当時は各グッズの製造メイカーに原寸大で版下(印刷用)を手渡すため、大きな紙袋が必要なのでした。つまりデザイナーとメイカーの間だけで運ばれる専用の紙袋。すべてデジタル信号で電送される現代では、無用になった紙袋ですね。
「ダスティー・ミラー」とあるのは、オサムグッズを販売するための子会社で、製造元の「コージー本舗」が親会社にあたります。この名前 DUSTY MILLER とは、ぼくがアメリカの植物図鑑から引用した、小さく白い綿毛のような花が咲く地味な草花の固有名詞なのでした。粉引き小屋という、言葉そのものも可愛いなと思ったのでした。ただの思い付きの会社名でしたが、ひとり気に入っていました。
そして、どうせ市販の紙袋を買うくらいならぼくがオリジナルのデザインをするよ、とまったくの趣味でスタッフ用に作ってあげたこの紙袋。筋目ハトロン紙という紙は薄いのでマットコートを施して強化してあります。よく安い業務用の封筒なんかに使われる筋目の入ったハトロン紙で、この色と風合いがもともと好きなのでした。当時のぼくのイラスト専用の紙袋も、この筋目ハトロン紙を使って自分用にデザインしていました。
ロゴのデザインも、新たにこの紙袋用に起こしたのですが、内輪でしか使わないからか誰もデザインに文句を言わないのをいいことに、まったくの好き勝手で趣味的だったなあ、とあらためて思います。いわばロゴ・オタクだったわけよね。文字の刷り色は、この写真の濃緑色と、他に朱色の2種。印刷インクの下を紙の筋目が透過するところがミソです。大中小のサイズがありました。デザインに興味ない方には、どうでもいい余計な話でしたね。拡大写真→ http://osamuharada.tumblr.com/

新茶とフロランタン

osamuharada2016-06-16

今年も飽かず、また新茶を喫しています。四月、南の屋久島産から始まって九州、四国、山陰地方と北上してきました。それも製造法にこだわりがある茶園のものをアレコレ飲み比べるのが楽しみなのです。
茶葉もその年々の気候によって、微妙に変化しています。その年の新茶に合わせて、茶請けの甘い物もいろいろ変えてみます。この季節のレパートリーの中では、新橋小川軒「フロランタン」が気に入っています。アーモンドにクルミ、ピスタチオをキャラメルでかためたお菓子で、日本なら「おこし」ですね。梅雨どきの、ちょっと肌寒い朝などによく合います。
この写真、フロランタンをのせてみた小皿はフランス製で、クリニャンクールで買った安物ですが、英国の清涼飲料水会社 Schweppes の宣伝用の景品皿なのでした。皿のデザインは19世紀に流行った通称 WILLOW 柄。むかしぼくの仕事場のホームバーで、この皿をパイプの灰皿代わりに使っていたら、安西水丸先輩がすっかり惚れ込んでしまったので、別に持っていたオリーブグリーンの同じ皿をあげちゃいました。その後、水丸さんは皿に描かれたウィロー柄の物語のほうにもハマってしまい、本格的に「ブルー・ウィロー」をコレクションし始めたのでした。
ウィロー柄とは、柳に中国風の桜蘭と橋、男女の純愛物語が描かれています。二人は駆け落ちしてオレンジの島で暮らすようになる。やがて男は有名な作家になるが殺され、後を追って女も死に二人は鳩になって昇天。というロマンチックな物語が秘められている(らしい)のです。そこが水丸さん好みだったのでしょうね。小皿の写真→http://osamuharada.tumblr.com/
このコップ型茶碗のほうは、舩木伸児さんの作。イッチンのペイズリー風の柄。こちらは煎茶専用で使い込むほどに味わいが出てきました。むかしぼくの持っている舩木さん作の八角皿を見て、これまた水丸さんが気に入ってしまい、何かの取材旅行だったか、舩木さんのいる島根県布志窯を訪ねてみたよ、と嬉しそうに報告してくれたこともありました。ただ同じ皿は手に入らなかったよし。あんなこともこんなこともあったな、とトシふるごとに思い出も積み重なってゆくものですね。煎茶を喫する時間が長くなってきたのもそのせいかな。
舩木さんのスリップウェア→[id:osamuharada:20090317] (写真右上の八角皿:水丸さんが見そめたもの)

オサムグッズの原田治 展

osamuharada2016-06-07

[展覧会のお知らせ]
はじめて OSAMU GOODS 商品を発売したのは、いまから四十年も昔のことでした。二十年前までは、キャラクターを描くだけでなくデザインまでも自分でやっていました(その後は版権のみ)。ぼくの30歳代から40歳代の働き盛りの頃でして、張り切りすぎて、いったいどのくらいの数を作ったのかは、あんまり多すぎて実はよくわかりません。それでコレクターの土井章史さんにお願いして、お手持ちのオサムグッズ 1,000点くらいを中心に展示させていただくことになりました。ぼく自身が見ても、ああこんなものも作っていたのかと懐かしく、今から楽しみにしている展覧会です。ちなみに今年でヤツガレも70歳の古稀とあいなりましたよ(笑)。
弥生美術館は、大正時代の「 竹久夢二 」コレクションなど、ノスタルジックな女性向けの絵やグッズの宝庫です。「 オサムグッズ 」もいよいよ昭和レトロの仲間入りというわけですね。7月 8月 9月まで 約三ヶ月間の開催。おヒマがあるときに、ごゆるりとお出かけくださいまし。場所は文京区の弥生(ココで出土した土器をもとに弥生土器弥生時代などと命名されちゃったのですね)。ちょうど東大の真裏のあたりで、煉瓦づくりのクラシックで小さな美術館です。スーブニール用の商品もちょっとだけ販売するそうです。
オサムグッズ原田治 展 】 The 40th Anniversary : OSAMU GOODS ®
2016年 7月1日(金)〜9月25日(日)[ 弥生美術館 ]東京都文京区弥生2-4-3
★YAYOI MUSEUM:http://www.yayoi-yumeji-museum.jp  
★OSAMU GOODS ® : http://www.osamugoods.com/

書斎日誌

osamuharada2016-05-30

爽やかな新緑の季節ですね。島では今年の新茶を喫したり、読書三昧をやっています。
相変らず大政翼賛のTVニュースは気分を害するだけなので、見ずになんとかやり過ごしています。しかし、たまたま中国美術史の本を読んでいたら、その見たくもないアベシンゾーとそっくり同じ顔を発見! それは中国「明」の時代を叩き潰して「清」時代〔1616〜1912〕をつくった、最初の皇帝「ヌルハチ」の肖像画です(画像検索ヌルハチですぐ出ます)。コレけっこう笑えますよ。
ヌルハチ」と名前が変テコなのは、この人が漢民族ではなく、ツングース系の「女真族」だからなのです。かつて秦の始皇帝万里の長城を造って防御した、北東シベリアの騎馬民族の末裔ですね。「満州族」(中国では満族)とも呼ばれています。なにしろ清の時代になると、公用語をすべて中国語から満州語に変えさせたほどの圧政です。漢民族(中国人)を奴隷のように扱ってきた満州族清朝末期の支配者は、あの悪名たかき「西太后」。この女帝の顔までアベ似です。人相の共通項:目がやや中心に寄っている、しかもタレ目で、鼻が無駄に長い。唇うすく おちょぼ口。耳タブは垂れ下がってふくれている。ちなみにスケートの浅田真央ちゃんの人相も(気の毒だけど)よく見ると似ているな。日本人ではちょっと珍しい顔つき。
ところで満州族といえば、アベの爺さん 岸信介 は、満州国大日本帝国の傀儡政権)で暗躍していましたよね。ネットで調べてみると、この岸(ほんとはガン)の祖先は江戸時代に朝鮮経由でやってきて、長州で代官をしていた女真族、と書いている人がいました。おぬしもワルよのう、の悪代官だったもよう。これでやっと「田布施の謎」も解けそうですね。もしそれがホントなら、アベと「ヌルハチ」の顔が似ているのは至極当然。古代はツングースの靺鞨(まっかつ)= 後の女真族満州族 へと続く同じ遺伝子ということになります。こんなアホらしい事を考えていたらデジャブ感があったのでBlog内検索したら、三年前の「書斎日誌」にも(悪口雑言を)書いていたっけ。→ [id:osamuharada:20130525]  ←前の書斎写真は曇り日だったようで、好天の一昨日に撮りなおしました(上の写真)。目にしみいるような新緑に囲まれています。せっかくの爽快な季節、他にはもっと楽しい本を読んでいますよ。
追記:いろいろある日本人の顔について→ [id:osamuharada:20100605]

パリの猫

osamuharada2016-05-25

Blog を個人的な〈 備忘録 〉として残しておくと、あとで楽しめる(あくまで個人的な)こともあるものですね。近頃の「猫ブーム」にのってか、あるテレビ局では「パリの猫」番組の再放送をやっていました。パリも猫も両方好きなので録画しておいたのですが、見ていたらよく知っている顔の猫が映っていたのです。5年前にパリのリュクサンブール公園で出会った猫ちゃん。→ [id:osamuharada:20110721] このとき Blog に写真ものせていたので覚えていました。そしてゆくりなく猫の名前と素性を知ることができたというわけです。写真はテレビ画面に映ったその猫。
番組取材によると、このコはリュクサンブール公園東側の、通りを隔てて向かいにある Café de Rostand の飼い猫なのでした。カフェの籐椅子の上で丸くなって寝てるところでした。そして、この老舗のカフェから公園へ散歩に行くのが、このコの日課なのだそうです。どおりで、公園で会ったときも、このベンチは私のフランチャイズであるという顔をしていたな。やたらと車の多い通りだけれど、ちゃんと横断歩道を歩いて渡っているのかな。
メス猫なのだそうだが、その名前を聞いてビックリ。有名な戯曲『 シラノ・ド・ベルジュラック 』からとって「 シラノ Cyrano 」だという。それじゃ男名前じゃないか。カフェの名前は、この芝居の劇作家エドモン・ロスタン Edmond Rostand からとってある。それで主役の「シラノ」というのはわかるけれど、女のコならヒロインの「ロクサーヌ」にしてあげたらいいのにね。ぼくはこの芝居を、かつて新国劇島田正吾で観ていて好きだったので、なんだか懐かしい名前だった。ただし翻案なので邦題は『 白野弁十郎 』なのでした。侍だから白野(シラノ)が苗字になっちゃって、よけいに男らしい名前だな。などなどヒマつぶしに、あれこれ思い出せるところが 備忘録 Blog の面白い所以なのであります。

ぼくのロゴデザイン

osamuharada2016-05-21

オサムグッズ商品のデザインを自分でやっていた頃、代官山のパイロットショップ「 Osamu Goods Soda Fountain 」のロゴタイプも自分でデザインをしました。店自体がぼくの好き勝手にすべてデザインさせてもらったので、肝心のロゴをデザインするにあたっても、こんなに楽しい仕事はめったにありませんでした。
ソーダファウンテンとは、アメリカのドラッグストアや雑貨店の中などにあって、清涼飲料水を提供するスペースのことです。薬屋さんが炭酸水を薬として提供していたのが始まりでしょうか。オサムグッズの店でも本格的に Drink Dispenser を置いて、三種類のソーダをつくりました。ぼくが考えついたメニューは、①チョコレート・ソーダHersheyのチョコレートシロップ炭酸水割)②グレナディン・ソーダ明治屋の柘榴のシロップ)③ミント・ソーダでした。ついでにむかし風の 「蝋引きストロー」までオリジナルデザインをしてしまいました。ソーダの色に合わせて、①は焦げ茶色、②は赤、③には緑色のストローです。写真→http://osamuharada.tumblr.com これをやはりロゴ入りのソーダグラスに入れて、バーカウンターにて出しました。チョコレート・ソーダは、銀座八丁目にあった「千疋屋」でのぼくの好物でした。
というようなわけで、ロゴデザインは「 炭酸水の泡 」をイメージしています。英文書体 Futura Medium の「o」文字は、まん丸なので、それがそのまま泡につながっている。我ながらなかなか可愛いアイデアじゃないか、といまごろ思いました。アメリカのソーダファウンテンで働く人の制服は、ドラッグストアらしく白衣が多かったようで、ロゴも白地にトリコロールカラーにして、清潔感を表現したつもりです。
このロゴができあがると、ショッピングバッグや紙袋の大中小、ショップカード、包装用リボン、ステッカー、店の看板やネオンサインまでつくってしまいました。店内インテリアは壁も天井も白塗り、床だけは全体にレモンイエローのリノリュームを敷きました。それに家具調度、バーカウンターの椅子にいたるまで、ぜーんぶを自分の思うがままにデザインできたことは、じつに痛快であって楽しい思い出です。そこにオサムグッズの新商品を並べるのですから、これはもう仕事を通り越して、オタクな趣味の世界とでもいうべきか。しかしこんな我がままな調子でいたせいか、ほとんど商売にはならず、親会社コージー本舗の営業さんからは、ぼくはただの「道楽者」としての烙印を押されたようです。それでも何でもいうことを聞き入れてくださったのは、先代社長の人徳と、このパイロットショップを提案してくださった石井さん(オサムグッズ生みの親)のおかげなのでありました。今から二十数年前のことでした。

色鉛筆の柄について

osamuharada2016-05-10

【とりとめもない話】 ゴールデンウィークを孫とたっぷり(へとへとになるまで)過ごした。小学一年生になったばかりで、文房具などを新調してやらなければならない。それで娘が自分で持っていた鉛筆類や消しゴムなどを家で探してみたところ、懐かしいオサムグッズの色鉛筆が出てきたよという。未使用だったけれど、もったいないから孫にはやらず、今夏の「オサムグッズ展」にでも出展しようかと相談しているところです。この写真の色鉛筆ぼくがデザインしました。→ http://osamuharada.tumblr.com
色鉛筆はすべてチェッカー柄です。それぞれの色名もスタッフと共に考えました。缶ケースにもチェッカーをあしらってあります。あの頃はチェッカーに何となくハマっていたのを思い出しました。いま見てもなかなか可愛いな。
というだけの話なのですが、こないだの東京五輪エンブレの新デザインをついでに思い出した。同じく「チェッカー」柄であるのに、ニュースではやたらとエンブレムは「市松模様」とだけ日本語で言わせていたのです。街頭で若者インタヴューしたときも、「日本的な市松模様がいいんじゃないスか。」などと(ヤラセくさく)話を引き出していた。アナウンサーも最初から市松模様で押しまくっていた。チェッカーとは誰も言わない。江戸時代の歌舞伎役者の名前が由来の「市松」って言葉、中学生でも誰でも知ってたんだ。たしかにあの新エンブレム、ロゴも含めて藍一色だから、藍染めの浴衣か手拭いの柄に見えなくはない。デザイナーは「組市松紋」とかっこつけて呼ぶ。それなら祭り半纏にピッタリだ。そこまで言うなら、いっそ三波春夫の「東京五輪音頭」を揃いの浴衣で全員踊ってもらおうじゃないか。《 それ、トトント、トトント晴れ姿 》
さらに想像をたくましくすると、あの市松ことチェッカー柄は、欧米人にとってはお馴染みであるはずの、フリーメーソンのシンボルでもあるのね。英国のお巡りさん(ほとんど低階級メーソン)の帽子にもチェッカーが帯状にデザインされているでしょ。メーソンが Initiation(秘密儀礼)を行う部屋の、床は必ずチェッカー柄になっていなければならない決まりがある。チェッカーは秘密結社のシンボルのひとつなのです。ちなみに聖火ランナーが持ち運ぶ松明(たいまつ)、英語で TORCHもメーソンの大事なシンボルマークだそうです。またトンデモ陰謀とかいわれちゃうが、嘘だと思うならグーグルで Freemason Checker や Freemason Torch などと英語で入れて、画像の検索をして見てくださいね。いったいオリンピックを牛耳っているのは誰なのか? 何がほんとの目的なのか? 関係ないけど日本語はイチマツとタイマツで韻を踏んでる。また、どふでもよゐ話でした。

ペーター佐藤:人と仕事

osamuharada2016-05-03

ペーター佐藤は、あまりにも早く逝ってしまった。(1945〜1994)イラストレーターとしては、四十歳代の絶頂期を迎えていた頃だった。(右の写真は息子のタケちゃんが撮影)
ペーターは好きで仕事をしていたのだが、かたわらで見ていて過労が気になり、仕事のしすぎを心配してぼくは何度も注意をしていた。しかし仕事を断ることができないのは性分だった。若い頃、仕事のスケジュール表を見せてもらったことがある。数えたら月に平均25本以上の広告や出版社からの注文が殺到していた。しかも手のかかるエアーブラッシュ描法は、一枚描くのにも二日はかかる。寝食を忘れての徹夜仕事が年間を通じて続いていた。
AIRBRUSH WORKとは、紙に絵筆で色を塗るのではなく、コンプレッサーで色インクを吹き付けて絵を描く作業です。まず指定の部分に噴霧された色がはみ出ないようにマスキングを施す。細かくカッターでマスキングペーパーやトレペを切り抜く根気がいる仕事。「毛抜き合わせ」といった緻密な技術が必要とされる。さらに色を吹き付ける工程は一発勝負です。思い切りのよさと細心の手技で一瞬のうちに描く。作業が逡巡することは許されない。霧になった有毒な色インクを吸入する危険もともなっている。
ペーターのイラストは、手の込んだ複雑なテクニックでありながら、見た目にはそれを感じさせず、むしろ軽やかな清涼感にあふれている。現代はパソコンという道具を使って、どんな表現でも機械的にできる時代になったから、今の若い人には、ペーターの絵がコンピューターを駆使して描いたものだと思われるかもしれない。しかし描かれた人物の「眼」をよく見ていただきたい。けして機械的な無機質さに陥らず、生き生きとして遠くを見通す眼がそこに描かれている。透明で涼やかで、やや憂いを含んでいる「眼」には、誰もが魅了されるはずだ。
コンピューターグラフィックスが発達しはじめた80年代になると、ペーターは逆にアナログ的な手法のパステル画を選んだ。この技法でも、緻密さと清々しさはそのまま変わることがなかった。パステルでの細密な描写は、原画を拡大(実際の印刷サイズより大きく)して描くことで可能になり、また大画面に描けば、手のストロークを活かして、よりスピーディーで大胆な筆勢が生まれる。ペーターは大きな紙をイーゼルに置いて、自身は立ったままで描いていた。イーゼルをやや前傾させていたのは、パステルの余分な粉末が画面に付着しないよう下に落とすための工夫だった。この立ち通しの作業にも徹夜が続いた。「一気に描かないと、途中で気が抜けちゃうからね。」と言って、食事もとらない日々もあった。ペーターの集中力には脱帽したけれど、ぼくは会えば必ず仕事のしすぎを注意してばかりいた。何故もっと強引にでも仕事場から引き離せなかったのか、いまだに後悔をする。
ペーターは鏑木清方が好きだった。晩年の清方を撮った写真にペーターが似ていたので、きっとトシ取ったらペーターもあんな風な老人になれるよ、とぼくはよくからかったことがある。ちょっと嬉しそうにペーターが微笑んでいたのも、はるか遠い思い出となってしまった。
ペーター佐藤森本美由紀 『 FASHION ILLUSTRATION 展 』 part 2
5月5日(木)〜5月22日(日) PALETTE CLUB http://www.pale.tv/
  ※ 森本美由紀さんについて→ [id:osamuharada:20150724]

古本フリーマーケット

osamuharada2016-04-22

4月30日(土)、古本のフリマにて、ぼくも一日店主を務めます。自分で本を売るというのは初めてなので楽しみです。値切っていただければ、多分どんどんおマケして、タダになってしまうかもしれません。売るという行為が恥ずかしくて、どうも苦手なのですが頑張ります。
さて売ってもいい本を倉庫で探してみたのですが、美術芸術関係の本はどうしても手放せません。稼業のイラスト関連の本はひとつもありません。雑誌はすぐに捨ててしまいます。何度もよく読んだ本のほとんどは、表紙をとりのぞき、背にはテープを貼ってマジックで題名など手書きにしています。本文は書き込みやら付箋だらけで、もはや本としての原型をとどめていないのです。それも古本で買ったものが多いのです。いったい何を売ったらよいのやら…。
探しあぐねたところで、ダンボール箱いっぱいの、歴史と Conspiracy 本が出てきました。これらの本はあまりに危険で、すぐ「焚書坑儒」になるだろうと思いつ、同じものを余分に買って隠しおいたものなのでした。これを売っちゃおう。昔のことですが、著作者たち(一例として鹿島昇)が自費出版に近いかたちで上梓しています。いま読んでもその反骨精神は古びていない。というわけで、これらをフリマに出すことにしました。解説もいたします。おヒマで、危ないけれど興味深い話題についていけるかたにお分けいたします。
他の出店者(全12名)は、パレットクラブの講師や卒業生の温厚なかたばかりで、危険な本はありません。新刊本や美しいヴィジュアル本も多く出るのでは、とぼくも買い手として期待しております。
詳細は、PALETTE CLUB:BOOK & COFFEE → http://www.pale.tv
追記: フリマ無事終了。英国人夫妻(コンスピラシー通)との知遇を得ました。ぼくの売った翻訳本、英国ではその原本を置いたある専門書店が放火され余儀なく閉店させられたよし。まさに焚書坑儒なるべし!

ペーター佐藤 1979年

osamuharada2016-04-14

仕事机の引き出しの隅から、〈 1979年 〉製の 懐かしい二つのポストカードが出てきた。ひとつはペーター佐藤、最初の個展【 VENUS 】のもの。ぼくがデザインを頼まれたので、先にこんな文字組レイアウトと特色指定のうえで、ペーターに線画を描いてもらった。これはポスターと共通のデザイン。サブタイトルは「佐藤憲吉リトグラフ展」とあって、ニューヨークへ渡る直前まではこの名前を使っていたのがわかる。南青山の「グリーンコレクション」というギャラリーにて1979年4月16日から28日まで。
もうひとつデザインしたカードは、パレットクラブ最初の展覧会【 NUDE 】(みなヌードを描いた)。こちらも1979年の 5月25日から31日まで。場所は原宿の「ギャラリー伊藤」。写真は仲良しの小暮徹さん。ペーターの仕事場に集まり、思いつきでヌード型の曲線定規をなぞってペーターが描いたものを撮ってもらった。パイプはその日たまたまぼくが持っていたもの。→ http://osamuharada.tumblr.com
ペーターが亡くなった次の年(1995) に、安西水丸さん、新谷雅弘さん、とぼくで監修した「ペーター佐藤作品集」【 PATER 】(PARCO出版)。そのなかで水丸さんはこんなことを書いている。《 一番印象に残っているのは1980年前後だ。とりわけパレットくらぶが発足した1979年頃のことはいろいろな思い出になって残っている。 パレットくらぶのネーミングもペーターの口から出たものだし、当時は彼の神宮前のオフィスで明け方まで話し込んだりしたものだ。パレットくらぶのみんなで京都旅行をしたのも1979年だったと記憶している。暑い日の京都で、でもぺーターはいつも一番元気だった。南禅寺の山門に上がった時、彼が欄干に手を置いたら、組み木の部分がぽろりとはずれてしまって、「あっ、ペーター、国宝を壊しちゃったぞ」ってぼくが言ったら彼はとても困った顔をした。彼にはそんなすごく真面目なところがあった。と同時に大胆なところもあった。 ぼくが犬恐怖症なのを知っていて動物好きの原田治といっしょにいつも歩きながら犬に気を配ってくれたりもしてくれた。笑われるかもしれないが、これはぼくにとっての大問題だ。 いずれにしてもペーターはぼくらのなかでもいつも若々しく元気だった。そして絵を描くことをこよなく愛しており、そこに唯一自由を見出しているような人だった。》
この年の夏からペーターはニューヨークへ仕事場を移した。ペーターはニューヨークへ行った理由をこう語っている。《 ‘77年以来の過激な仕事量がたたって疲れが出てしまったこと、またある意味で行き詰まりを感じ始め、息苦しくなっていたこと、ニューヨークという都市に新しいムーブメントを予感し、自分もその場にいなくてはいけないという思い込みが激しくなって来ていたこと、等々の要因が重なって行動に移したのだった。》とあります。水丸さんのいうペーターには「大胆なところもあった」のひとつでしょう。
さらにペーターは、《 ニューヨークに着いてみると、大きな書店のウィンドウには自分の作品が表紙を飾っている『 エアパワード 』が並び、ペーパームーン・グラフィックス社のグリーティング・カードがブームで、自分のカードもその中に並べられていたのだ。まるでニューヨークがタイミングを合わせて、ウェルカム!と両手を広げて待ち構えていてくれたような錯覚に陥るのだった。到着した晩に聞いたトーキング・ヘッズのLP「フィア・オブ・ミュージック」の曲は、音楽がすべての文化をリードしているという確信を、突然抱かせてくれた。そこで、この1年間の目標を音楽を聴くこと、できるだけたくさんの人の集まる場所に居ることと決めた。トーキング・ヘッズデヴィッド・バーングレース・ジョーンズ、デボラ・ハリー等々、この1年間くらい人に会ったことはなかった。》と回顧していました。1979年、ペーター佐藤 三十四歳。