祖父のスナップ写真

osamuharada2008-04-05

先月、京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターでやっていた「マキノ映画の軌跡」展を見に行ったら、映画監督をしていた母方の祖父、二川文太郎のスナップ写真数葉が展示されていて興味深かった。“日本映画の父”といわれた牧野省三が設立した京都の映画製作所「マキノ等持院」と「マキノ御室」に、二川は監督として参画していた。当時の撮影現場の様々なスナップ写真が展示され、その中にこの愉快な写真がありました。チャンバラのタテを演出中のスナップ(洋服ソフト帽で刀を持つ人です)は「影法師」撮影現場風景。他にも自動車の脇に乗って移動撮影中のスナップや、編集室でフィルムを真剣にチェックしている姿などもあって楽しかった。祖父の25,6歳の若い面影が偲ばれる。 なにしろ大正から昭和初期の映画草創期といえば、まだサイレント映画の時代ですね。フィルモグラフィーによると、二川は牧野省三が亡くなるまでに、マキノ映画で50本以上撮っているようでした。当時のフィルムは自然発火しやすいせいもあって、さらに戦火をくぐったので、戦後はほとんど現存してない。ぼくが初めて見たのは、二川の監督代表作といわれる1925年「雄呂血」(阪東妻三郎主演)ですが、これは祖父が死んで6年後の1971年、奇跡的に残存フィルムが発見された後、フィルムセンターで公開上映されたものでした。日本映画史上有名な、あのラストシーンは阪妻大殺陣が圧倒的で、まだクレーン車も無い時代に、延々と続く長まわしの俯瞰ロングショットは無声映画ながらも凄まじかった。この激しい立ち回りのシークエンスは、後に歌舞伎で義経千本桜「渡海屋」の殺陣にも影響を与えたそうです。どうもぼくがチャンバラやアクション映画好きなのは遺伝らしい。
祖父は京都紫野に住んでいたので、脚本家としてのペンネームが紫乃塚乙馬。紫野松風[id:osamuharada:20060317]   祖父の弟も兄を追って東京から京都へ行き映画監督になっています。[id:osamuharada:20070315] やっぱり時代劇がいいのです。芝白金にある祖父たちの墓の横には、兄弟揃って映画監督であるのは珍しいという意の、可愛らしい石碑が建っています。
超映画マニアの人向け、二川文太郎フィルモグラフィー。 http://www.jmdb.ne.jp/person/p0317640.htm