ファッションと音楽

osamuharada2016-04-06

ペーター佐藤の Fashion Illustration は、1979 年に仕事場をニューヨークへ移した頃に完成したと思います。この年のファッションは最新の音楽シーンとも深く関連していました。ロンドンの PUNK がニューヨークへ渡り NEW WAVE が始まった頃のことで、ペーターは作品集のなかでこう書いています。《 ファッションは、ひとくちにいって、ベリー・シックスティーズである。たとえば Aライン、サックス・ドレス、ミニスカート、そして肩幅の広いジャンプスーツが主流になりそうな気配。ベッツイ・ジョンソンは早くもニューウェイブ・ファッションをものにして、みごとに変身をとげている。パトリシア・フィールド、マリー・レムリーなどが目下のところ気にいっている。》写真は「よくモデルになってもらっているアンと。」ペーターです。
1979 年は、渡米前のペーターの命名により Palette Club のできた年でもありました。その十月には安西水丸新谷雅弘先輩らと一緒にニューヨークのペーターを訪ねてゆきました。SOHO の広大なロフトの仕事場には、Talking Heads の最新曲が流れていました。七十年代音楽のダサさを引きずったままの東京から来てみると、まったく新しい音楽やファッションがニューヨークで生まれていたのです。ペーターは《 ブラックアンドホワイトのオプティカル・パターン、プラスチック・ペーパーや蛍光色のビニールクロスなど、新しい素材を駆使して、シックスティーズのフィーリングで仕立て上げたドレスが、ニューウェイブ・ファッションの典型的なスタイルのようである。ヘアは断然ショートヘアでなければならない。》と書いています。
そういえばペーターの短髪は、クライアントのヘアデザイナーによって、一時は青く染められていました。おチカさん(奥さん)まで緑色に染められた。それに人からの貰い物という服に身をかためて、ペーターもすっかりパンクっぽいファッションになっていた。しかしながらペーターの優しすぎる人柄が災いするためか、ちっともパンクには見えなかった。どちらかといえば中国人の苦力(クーリー)みたいだよ、とぼくがケナしたら爆笑した。ぼくが何を言っても決して怒ったことがない。いつも修行僧のようだねとからかっていたのに、ペーター兄貴はぼくの毒舌が好きなのでした(のはずです)。
1979年のヒット曲、ペーターにすすめられて聴いたトーキングヘッズや The B-52’s、DEVO など、これがニューウェイブだよと言われても、よくわからなかった。何だかみんな神経症にかかっているみたいだな、といったらまた優しくペーターは笑っていた。ぼくがジャスト’79年のヒット曲で好きになったニューウェイブは、Blondie のデボラ・ハリー。あとは英国の Dire Straits マーク・ノップラー(特にそのギタープレイ)などでした。しかしパンクも、ニューウェイブの後のニューロマンティクスも、ぼくには無縁のままでした。日本のテクノも苦手。つまり時代の波に乗ることができず、とうとうファッションイラストだけは描けずじまいでした。
ぼくが唯一好きなほうの、パンクでニューウェイブBlondie。この動画の冒頭に、当時ニューヨークの音楽シーンの拠点となった BOTTOM LINE や STUDIO 54 の看板がでてきます。デボラ・ハリーはペーターと同い年。

これも欧米ではニューウェイブと呼ばれたそうですが、日本じゃ無視された Dire Straits。確かにマーク・ノップラーはファッションとはほど遠い。

FASHION ILLUSTRATION 展

osamuharada2016-03-25

わが親友ペーター佐藤が逝ってから二十一年が過ぎました。80年代のニューヨークでは、ファッションイラストを描いて時代の先端を歩いていた。日本ではバブル経済でファッション界も大盛況といった頃、ペーター描く美人画は一世を風靡した感がありました。
いつだったか若い頃、二人で京都の丸太町通りにあった古本屋をヒヤかしていたら、50年代のヴォーグ誌が山積みに置いてあったので、ペーターは静かながらも興奮しつつ、抱えきれないほど買って帰ったことがありました。ぼくも運ぶのを手伝った。そのときの幸運な収穫を、嬉しそうに後々までも語りあったことが懐かしい。 ペーターからは欧米のファッションイラスト史について教えてもらった。ペーターはフランスのルネ・グリョーが好きだった。ぼくからは江戸期の浮世絵版画がファッションイラストの役目を負っていたことを教えて、一緒に研究をした。ペーターは春信や英泉が好きになり、鏑木清方に傾倒した。美術館と博物館めぐりもよくした。アメリカのピンナップイラストの歴史も共に考察したことがある。ペーターは特にジョージ・ペティの美人画に強く影響を受けて自身のスタイルを築いていった。
故・森本美由紀さんもルネ・グリョーに憧れて、ノスタルジックに60年代ファッションの世界を見事に再現していた。早くからペーターは森本さんの才能を認め、ペーターズギャラリーでの個展を企画しては売り込んであげていた。いつも森本さんのことをホントにうまい人だよねと誉めていた。ペーター亡きあと、パレットクラブスクールでは森本さんがクロッキーやデッサンを教えることになり、専属のモデルさんをたて本格的なファッションイラストの基礎を自らが楽しみながら教えていました。
どのような時代であれ「ファッション」が無くなるということはなかったでしょう。歴史上お洒落を楽しむ人々が絶えることはなかった。その風俗を描く画工たちの「ファッションイラスト」もまた連綿と続いています。 パレットクラブでは、故人となったペーター佐藤森本美由紀と、現在もファッション分野で活躍中のイラストレーターたちとの【 FASHION ILLUSTRATION 展 】を開催いたします。
part 1(4月1日〜17日) : 網中いづる・飯田 淳・上田三根子・河村ふうこ・平澤まりこ・前田ひさえ・吉岡ゆうこ
part 2 (5月5日〜22日) : ペーター佐藤森本美由紀
レセプション、トークショー、ワークショップなど詳細は、Palette Club News にて。→ http://www.pale.tv 

肉食系です。

osamuharada2016-03-19

いまだに肉が好きで、これはトシをとっても変わらないのです。量はだいぶ少なくなってきましたが、そのぶんもっと旨い肉を食べたくなる。食の好みは人それぞれだけれど、オヤジも最晩年まで肉好きだったから遺伝なのかもしれないな。肉食の家系です。おもに牛と豚のどれも好きですが、こう書き出してみると、どうも動物愛護の精神からは、残酷で申し訳なくなる。しかし人類史を遡れば、人間は雑食を続けてきたからこそ生き延びてきたのだ。と自分をごまかすしかない。祖先はナウマン象だって旧石器で倒して食べていたのだと。
沖縄は、意外にも肉が旨いところです。この写真は、先週も食べた那覇の「BACAR」自家製県産生ハム三種盛り。左から本部(もとぶ)牛、県産豚、伊江島産合鴨。どれも絶品としかほかにいいようがない。いつもマルゲリータの前にこれを注文する。 ビストロ「PETITE RUE」では、お馴染みパテ・ド・カンパーニュとやんばる島豚のカツレツが気に入っています。 焼肉では、本部牛カルビ&ロースが旨い久茂地の「もとぶ牧場」が最高。 台湾では、好きになった自然食材の店「東雅小厨」、当店自慢の肉団子スープと豚肉キムチ炒め。これはもう食べるほどに元気が出てくると保証しちゃう。 このごろ東京の外食では、赤坂「東洋軒」松阪牛ビーフシチューにハマっています。ヤツガレの内食は、良い肉を選びステーキにして醤油、それにご飯です。家ではこれが一番簡単でうまいなと思います。 「BACAR」[id:osamuharada:20150305] 「PETITE RUE」[id:osamuharada:20141123] 「東雅小厨」[id:osamuharada:20140315]

推理小説ファン

osamuharada2016-03-10

北欧ミステリー【 ミレニアム4:蜘蛛の巣を払う女 】を、あっという間に読み終わって、つくづく推理小説はまだまだ面白いなと思った。このミレニアム・シリーズは、最初に映画で見て気に入り、ただちに1、2、3と原作本を読んですっかり愛読者になった。こんどの4は、すでに亡くなっている原作者のあとを、別の作家が引き継いだものだが、もとの原作者が書いたと思えるほど見事に継承されている。読者の期待をまったく裏切らない。また次が楽しみだ。
ぼくの場合は、映画「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」を見たのが先だったので、ヒロインの「リスベット・サランデル」役を演じた(好きな女優)ノオミ・ラパスが頭に入っちゃっているから、読みはじめるとすぐ彼女が目に浮かんだ。リスベットが NSA ( アメリカ国家安全保障局 )をハッカー攻撃するときの、相手に送る言葉《 国民を監視する者は、やがて国民によって監視されるようになる。民主主義の基本原理がここにある。》が、かっこいい。スノーデンや、ウィキリークスのアサンジが下敷きになっているのだろう。
雑誌ミレニアムの記者「ミカエル・ブルムクヴィスト」は、もとの原作者がモデルにし、映画でも実際に演じた俳優ミカエル・ニクヴィストしか思い浮かばない。リベラルなジャーナリスト役。リメイクのハリウッド版で同じ役を演じた(007の)ダニエル・クレイグはミスキャストだったと思うな。ストックホルムの街の景観も、すでに映画でインプットされてお馴染みだ。読むというより映像体験をしているようだった。書評はどれも評判がよいので何も言う必要はないけれどオススメしたい一冊です。ミレニアム1、2、3については→[id:osamuharada:20100923]に書いていました。
【 どふでもよゐ話 】ところで、ヤツガレがミステリー好きになった事始めはいつごろだっただろうか? とついさっき考えてみたら、小学生の頃のことだった。毎週土曜の夜に見ていたテレビドラマ【 日真名氏飛び出す 】で目覚めたのを思い出しました。調べたら、かの双葉十三郎さんが原案を書いていたと分かった。どおりで各タイトルからして翻訳ミステリー調だ。「バレリーナと拳銃」「スターへの脅迫状」「列車で逢った女」「幕をおろせ」「人を呪わば」「追いつめられて」「一枚の特急券」「アンブレラ作戦」「湖畔の銃声」「誰かが殺られる」「犯罪遠近法」などなど。洒落ていた。
当時は江戸川乱歩の少年探偵団が大嫌いで、名探偵・明智小五郎も気に入らない少年でしたが、テレビの名探偵・日真名(ひまな)進介氏は好きになりました。銀座の三共ドラッグストアが事務所がわりで、せっかちなカメラマン助手の泡手大作(あわて だいさく)がコメディ・リリーフ。ドラッグストアに勤めているお姉さんたちも美人ぞろい。蝶ネクタイの日真名氏は、いつもヒマそうにパイプをふかして登場していたが、事件が起ると俄然として冴えわたる。演じた俳優・久松保夫の低音の口跡がまたよかった。同じ頃に西部劇「ララミー牧場」のジェス役の声優としても人気が上がった。
中高生時代からの推理小説ファン歴は、早川書房の「ポケミス」と雑誌「ヒッチコックマガジン」から始まったということになる。短編ミステリーの名手ヘンリー・スレッサーが大好きだった。刑事モノではエド・マクベインの「87分署」シリーズにハマった。リーガルミステリーは E・S ガードナーの「弁護士ペリー・メイスン」シリーズを好んだ。ハードボイルドの私立探偵モノでは、通俗的な「マイク・ハマー」がまあ好きで、チャンドラーの「フィリップ・マーロウ」はちょっとキザな感じがしすぎた。客観性のない一人称モノはなんとなく退屈だった。ハマーは「俺」でマーロウは「私」の翻訳だったかな。むかしから推理小説を単なるヒマツブシとして読んできたのは、ヒマな日真名氏のせいだったのか、といまにして思いいたった。

ミレニアム 4 蜘蛛の巣を払う女 (上)

ミレニアム 4 蜘蛛の巣を払う女 (上)

台湾の博物館

osamuharada2016-03-02

それからまた【国立台湾博物館】にも行ってきましたよ。去年に引き続き、台湾原住民族の「文身」(TATTOO:刺青)の展覧会が開催中。いまなお健在なパイワン族の女性を、新たに取材したビデオで構成されている。女性の手の甲に施されたタトゥー。その最後の、存命中の女性たちの肉声を記録した調査報告なのです。手の甲のタトゥーは、沖縄の織物をする女性たちのタトゥーとも共通していた。ほとんど同じ風習。沖縄=邪馬台国説で考察すれば、台湾原住民は魏志倭人伝にいう「倭種」にあたると思います。同じ黒潮海流のベルト上にある遠い親戚でしょうか。民族衣装と相まってタトゥーも違和感なく美しい。女性たちの顔貌は日本人にもよく似ている。いずれもどこかで出会ったような感じがするし、懐かしくもある。博物館内写真は→http://osamuharada.tumblr.com/
TATTOO】にご興味あるかたは以前書いたこちらを。 去年の台湾博物館→[id:osamuharada:20150217]  ハワイの博物館→[id:osamuharada:20120229] 倭人伝とTATTOO→[id:osamuharada:20141204] 聖徳太子TATTOO→[id:osamuharada:20150112] TATTOOの国→[id:osamuharada:20150128]
【博物館の建築】台湾原住民とはかけ離れた、この疑似ローマ帝国風建築が気になりませんか? 1908年(明治41)に建設されている。どうも怪しいなと調べてみたら、大日本帝国が台湾を植民地にしていたときの総督府児玉源太郎と民政長官・後藤新平、このたった二人だけの名を冠した「記念館」として建てられたのだそうだ。しかし何故だかすぐ翌年には「台湾総督府博物館」と改称されている。ちょうど児玉源太郎と同じ長州の伊藤博文が暗殺された年だ。それにしても大日本帝国と豪語していた一国の建築物が、まったく西洋の模倣建築にすぎないとは笑止。明治の薩長政権が、実は欧米の傀儡政権であるとの証左を示している。とつい思っちゃう。長州には児玉神社まであるけれど、児玉源太郎といえばレオナール・フジタ藤田嗣治)→[id:osamuharada:20110804] いまも続く薩長政権とは→[id:osamuharada:20121208]  台湾を植民地支配していた頃の日本もどこかの植民地か?→[id:osamuharada:20110725]

台湾の犬

osamuharada2016-02-24

台北の夜、食後に裏通りをブラついていたら、屋台の焼鳥屋のあたりを徘徊している雑種犬を見つけた。ヤツガレはどこを歩いても犬猫を見つけるとつい一言話しかけるクセがある。このコは屋台の周囲に落ちている客の食べカスをあさっていた。「ここで何してるの?」と聞いてみたのだが、突然まずいところを見つかっちゃったなという困った顔をした。すぐにプイッと屋台の向こう排水路側へいってしまい、また黙々と汚水まみれの食べカスをあさっている。人間嫌いなところがありそうだ。しかしちゃんと派手な柄の首輪をしているから飼い犬だろう。屋台のオヤジさんもオバさんも知らん顔はしているが、ああここんちのコなのかと安心もした。と思っていたら、犬は踵を返して隣りのオープンカフェの人混みを抜け、駐輪しているバイクの列をくぐりぬけ、通りの反対側へ脇目も振らずにいってしまった。向こうはビル工事中の塀があるだけで、そのさきは中山北路に出る。夜でも猛スピードで車が行き交う6車線の大通りだ。大丈夫かな?と心配になって後を追ってみた。大通りに出て左右の歩道を見渡したのだが、もうどこにも犬の姿はなかった。
そこから2ブロック先の南京西路との交差点はまだ人通りも多く混雑している。犬のことは忘れて、夜十時までやっている三越のデパ地下へいくつもりで信号を渡ろうとしたら、向こう側の歩道にさしかかる手前で、くだんの食べカス犬がすぐ横を急ぎ足で通りこした。きちんと信号を守って走行しているところは偉いなと感心した。歩道に着いたら四角い広告塔のようなものに片足あげてオシッコをかけてゆく。こちらが声をかける間もなく、雑踏のなかをスイスイと抜けて三越のほうへ左折した。同じ方角を先導してくれているのかなと一瞬思えたほどの慣れた足取り。
この繁華街のど真ん中、大通りの歩道に沿って植え込みが連なっている。犬は途中でその植え込みの中にまた小便をした。自分のテリトリーに匂い付けをしているのだろう。次はその2mほど先の植え込みにて、優々と大便のほうにとりかかった。顔を車道側に向けて唯我独尊、とても気持ち良さそうだ。こちらも嬉しくなって眺めていたのだが、排便がすんだ途端、ひとの前を横切ってすぐ手前の店舗の中に走って入ってしまった。エーッ、こんどはこんな清潔で明るい化粧品店に用があるのかよと意表をつかれた。屋台との落差が大きすぎる。中を覗いてみると、犬は店員さんに話しかけられて尻尾を振っている。そのうち出てきた店のオジさんに飛びついたので、このコの飼い主だとひと目で分かった。まだ外から様子を見ていたら、オジさんがそばにやってきて犬を奥から呼び寄せてくれた。こちらが犬好きだと気がついてくれたらしい。急に忠犬らしくなってオジさんが中国語で命じたら、店先でお座りしたままジッとしてくれた。さっきまで焼鳥の汚い食べカスを喰ってたことなど無かったようにすましている。オジさんは知るや知らずや、実はB級グルメ犬であることは内緒にしておこう。写真は取らせてくれるが、他人には知らん顔。よくみると困ったような顔は生まれつきなのだった。Hanna-Barbera の漫画に出てくる、気の弱いハイエナ「ハーディー・ハーハー」を思い出した。オジさんにこのコの名前を聞き忘れたのだけが心残りとなった。
そのドキュメンタリー写真→http://osamuharada.tumblr.com/ (後の4あたりを押してください)
おかげで日本の忠犬ハチ公の謎も解けた→[id:osamuharada:20150319]

台湾にて

osamuharada2016-02-22

今年も故宮博物院で、文人画家「董其昌」展を観ました。富岡鉄斎座右の銘とした《 万巻の書を読み 万里の路をゆく 》の董其昌です。二日間通い、じっくり勉強させていただきましたよ。唐から始まって五代、宋、元、明の山水画の系譜を集大成して、文人画の芸術論を確立した人。過去の名画を臨模した作品も多く、絵画史を自ら描くことによって体得した人だと分かる。そして水墨のあらゆる技法を自家薬籠中のものとした。しかし絵画は模倣のままで終えてはならず、一旦すべてを忘れ去り、自由気ままに描かなければいけないと戒める。
日本では江戸時代に董其昌は知られて、幕末の文人画に多大の影響を与えた。鉄斎もまた私淑したその一人といえる。一昨年に故宮でみた明初の「沈周」が文人画のルネッサンスだとしたら、明末の董其昌は印象派の開祖のような存在かな。のちに清初の「石濤」「八大山人」にも影響を与えている。マティスはこの石濤に傾倒して独自の線描スタイルをつくったから、文人画の系譜に入れてあげてもいいのでは。といろいろ空想するだけでも楽しい。ぼくは董其昌にアブストレを発見して、文人画の目指す桃源郷に至ることができた。やはり絵画は実物を見るにしかず、ですね。
故宮では、いつ来ても書画の展示室はガラガラでこれだけは嬉しかった。ただ途中でお茶していた三希堂が閉鎖(大衆食堂化か?)されたのが残念。ゆっくり余韻を味わうような場所はどこにもなくなった。中国人団体さんで館内は埋めつくされ、昼間はいつもラッシュアワー。押すな押すなで美術鑑賞にはいくらなんでも酷すぎる。有名な彫刻「白菜」は、すでにゆるキャラとなってミュージアムショップ(土産店)で売られていた。猫ブームはまだ中国では起っていないらしく、所蔵品で南宋の画家「李迪」の神品といわれている仔猫図(原寸の印刷物)を500円で売っているというのに誰も買わない。「董其昌」展の重厚なカタログ(上の写真)は素晴らしく、しかも安い。でも誰も買わない。
長いこと董其昌を〈とうきしょう〉と読んで馴れ親しんできたが、本国では Dong Qichang と発音する。これじゃドン・キホーテみたいで、リューベン(日本人)としてはちょいと残念な気もした。 去年の故宮[id:osamuharada:20150210] 一昨年の故宮[id:osamuharada:20140301]

映画「オデッセイ」

osamuharada2016-02-13

俳優マット・デイモンを好きになったのは、アクションもの「ボーン」シリーズが始まってからで、それまでの文芸映画では生真面目な感じがしすぎて、ぼくにはちょっと物足りなかった。こんどの『オデッセイ』は、リドリー・スコット監督で3DのSF映画だという。ゴールデングローブ賞ではコメディ&ミュージカル部門で作品賞をとっていたから、一体どんな映画なのかワケがわからない。邦題だと壮大な宇宙モノにもみえる。ともかく前知識はなくとも、好きな俳優と監督で観ることにしました。期待はしていなかったけれど、これが実に面白い! 大人のエンターテインメントになっていた。(注意:以下はネタバレです。)
音楽の使い方が洒落のめしていて、なるほどコメディとしてもイケてる。なかでもデヴィッド・ボウイの曲が出てきたところで笑えた。アルバム『 ZIGGY STARDUST 』からの一曲【 STARMAN 】だったから。《 There’s a Starman waiting in the sky  He’d like to come and meet us 》これなら1972年に出た頃よく聴いていた。そして偶然にも、つい先日デビッド・ボウイは亡くなったばかりだったので、思い出したら急に切なくなってきた。昔このデヴィッド・ボウイのLPレコードを買ったのは、ボブ・ディランに影響されたイギリスの新人という日本での評があったからでした。聴いたらぜんぜん違っていたけれど、この「スターマン」という一曲はバカバカしいところが大好きなのでした。このあとからのデヴィッド・ボウイは、グラムロックで化粧も濃くなり、あまり好きになれなかったな。
この映画は〈サバイバル〉が主題になっているわけで、期待にたがわず ‘78年 Gloria Gaynor の大ヒット曲、かの【 I will Survival 】を用いてくれたところでも笑った。邦題は「恋のサバイバル」《 とんでもないわ! 私は死なない。私がほんとの恋を知っている限り、私は生き続けるのよ。》火星で聴く音楽(CD)が、あいにくダサい七十年代ポップスしかなかった、と主役マット・デイモンに言わせておきながら、ストーリ展開とぴったりの様々な歌曲がかぶさってコメディとなる。リドリー・スコット監督の男っぽいユーモアが効いている。見終わったら、俄然前向きになり愉快な気分になってしまう映画。これは近ごろ珍しい。

北園克衛の短編小説

osamuharada2016-02-07

北園克衛の短編小説集『 黒い招待券 』は、1964年に上梓されている。そのINTRODUCTIONには、《 ある秋の日の、ひさしぶりに空の美しい日であった。閑散とした山の手のとある坂道をくだりながら、ふと、私がこれまで折りにふれて書きつづけてきた短い物語を集めて小さな本をつくることを思いたった。》とあります。北園克衛62才のときの出版。これは、ぼくの若い頃の愛読書だった。一時期はいつも上着のポケットに入れていたのです。
その小さな本『 黒い招待券 』では取り上げられなかったが、戦前に、いくつかの雑誌に寄稿していた小説の拾遺集のような本が、最近になってできあがった。よくこれだけ探し出してきたものだと思う。『 北園克衛モダン小説集・白昼のスカイスクレエパア 』(幻戯書房刊)。詩人の菊地肇さんがぼくに贈ってくださった。
北園克衛三十代、すべて戦前の作品群。1930年から1941年(太平洋戦争勃発)までの間に書かれた35編。軍国主義が台頭してきた時代だ。にもかかわらず北園克衛の小説には、不穏な時代の陰りというものが微塵もない。モダニズムの短編小説を書き、あえてあの時代からは超然としていたのかもしれない。開戦前夜こんなに明るい書き出しもある。
《 街にはまた花咲く春が訪れて来た。そして街の少女たちはシイルやアストラカンの外套の重さに堪えかねて、チュウリップの水々しい茎のように溌剌とした四肢を、晴々しい春の微風のなかに投げいれた。》「緑のネクタイ」
また詩の一節でもあるような言葉が並んでいる。
《 ある五月の静穏な夜。街はインキ瓶の中に沈んでいるのです。》「白の思想」
《 ま水のような朝の風が樅の木の梢を吹いていた。》「煉瓦の家」
《 海は太陽の下で縮れている青いゼラチン紙なのです。》「初夏の記録」
《 三月の空気が新しいプリズムの様に冷たく澄んでいる。》「黒水仙
《 夜のプラタナスが夏を吹き上げている ― 青いビイルのように。》「背中の街」
《 シプレの香りが彼女の気紛れな性質に冷やかなデザインをする。》「夜の挨拶」
《 初夏のテレヴィジョンのような雨が銀座の街を静かに濡らしていた。舗道を行くアンブレラのカアブが鈍く鉛のように光り、街は漸くネオンがつく頃あいであった。》「山百合」 
これは1939年に書かれていますが、すでに「テレヴィジョン」を知っていた。ここではブラウン管の走査線を雨に見立てたのでしょう。テレビ放送は戦後の1953年(昭和28年)からスタートしている。この小説の実に14年後ですね。
《 アクアマリンの空に、白いカンガルウの雲が出ている。自動車は麦のダンダン畑を登って行く。ボンネットの先端の天馬が、突然に雲の中に踊りこむ。彼はマドリガルを口笛で歌っている。》「春の日に」
《 冬の日の鋭い空気の中で街路樹の柳が水晶の鞭のように鳴っている午後、私は外套の襟を高く立てて銀座の凍った舗道を歩いていた。飾り窓の硝子がスケイト・リンクのように冷たく光っている。私はふとその硝子の上に MON AMI と金色に浮き出した文字を見ると、ドアを押して這入っていった。》「蘭の花」
《 彼女はテエブルの上のシャボテンの鉢を見るでしょう。それは一インチの立体的完成のなかに砂漠の純潔を持っているのです。》「初夏の記録」 
《 彼らはトオストにバタを塗って、角のところから平和に食べ始める。》「ムッシェルシャアレ珈琲店
書き写していると楽しくてとまらなくなりそうです。

白昼のスカイスクレエパア

白昼のスカイスクレエパア

邪馬台国日乗

osamuharada2016-01-30

また沖縄県立博物館へ。沖縄本島北谷(ちゃたん)の沖で発見された海底遺跡邪馬台国である、という木村政昭先生の有力仮説を再確認。こんなに魅力的で、しかも論理的に首肯できる世紀の大発見を、完全に無視している博物館というのも珍しい。陸側の北谷周辺で発見された多数の線刻石版は「沖縄の謎」という投げやりなコーナーに展示されたままだ。海底遺跡はいまだに「遺跡」なのかどうか独自調査さえしていない。やる気ゼロの博物館。いつもガラガラで観光客ゼロなのは嬉しいけれど。今回もユックリ眺めていたら面白いことに気がつきましたよ。

① 線刻石版(右の写真)には、大型の帆船が上部にあり、いちばん下には高床式の建物が描かれている。長い柵状のものが中間に横断しているのは結界かな。よく見れば、絵柄の配置からして高床式建物は海底に沈んでいると思える。遠近法も知らないし、普通の景観であるならこういう布置では描かない。

この線刻石版は、陸側の「グスク」の祭儀場跡から発掘された。四世紀頃に地盤沈下した邪馬台国を、後々まで祭っていたものと思われる。祭儀を司るのは、いまも存続している沖縄の「ノロ」(女性神官)たちだ。【卑弥呼】=「アマミキヨ」の末裔ともいえる人々。

縄文時代晩期から、沖縄本島で後世まで使われていた黒曜石(新石器)は、すべて九州佐賀県の腰岳で産出されたもの。展示パネルには、その腰岳黒曜石の流通ルートが示されている。それはヤツガレが考察した倭人伝の邪馬台国への道程とピタリ同じものだった。太古より慣れ親しんだ古いルートを、弥生時代にも踏襲していた。

すなわち、腰岳を背にした松浦(現在の伊万里)【末盧国】から東南陸行五百里で、佐賀県糸岐【伊都国】に出る。さらに東南百里諫早湾内の一地点(弥生海退で広大な干潟だった)【奴国】に進む。次に東へ百里有明海の出口付近(同じく弥生海退で干潟)【不弥国】に出る。そこから南へ水行二十日の船旅で薩摩【投馬国】に到着。そして、さらに南へ船出して水行十日と島伝いの陸行で、沖縄本島に到着。本島中部(金武湾も干潟だった)に、隣接していた邪馬台国群21ヶ国を合わせて陸行一月で巡り、いよいよ北谷の前にひろがる干潟に着く。満潮のときはエメラルドグリーンの海上にある邪馬台国が見えてきた。潮が引けば琉球石灰岩で白く輝く城塞【女王国・邪馬台国】まで歩いて渡れる。ここがいまは海面20m下にある海底遺跡(長径900m×幅200m)というわけです。「倭の地を参門するに、海中洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なる。」と倭人伝に書かれています。というわけで、邪馬台国へは腰岳黒曜石の流通経路そのままで行けちゃうのです。もともと海洋系縄文人が頻繁に行き交っていたルートだと考えられる。彼ら倭人が水先案内人として、魏の中国人を女王国まで連れて行ってくれたのです。腰岳黒曜石→[id:osamuharada:20111126]

③博物館の前庭には、線刻石版とそっくりな高床式の倉庫が建っていました。礎石は琉球石灰岩、これなら干潟でも木の柱を建てられる。2000年以上前から、ついこの間まで高床式建物は使われていたでしょう。

参考写真:http://osamuharada.tumblr.com/

帰りに那覇の大型書店で、木村先生の名著『邪馬台国は沖縄だった』がまだあるかなと探したら、本格的な古代史を揃える書棚にはなく、沖縄の人文地理学(マンガ本も含む)のせまい書棚の最下段に二冊だけありました。沖縄の本屋まで、やる気ゼロなんだ。その二冊をまた買って、晩ご飯を食べに行ったビストロ「プチット・リュ」のシェフに一冊さしあげた。しかしこの本の装幀デザイン、もうちょっと、どうにかならなかったのかしら。

邪馬台国は沖縄だった!―卑弥呼と海底遺跡の謎を解く

邪馬台国は沖縄だった!―卑弥呼と海底遺跡の謎を解く

ぼくの黒曜石ルート=倭人伝ルート説は、木村先生の考えられるルートとはちょっと違ってしまいました。九州の上陸地点【末盧国】=唐津という通説を木村先生は受けいれられている。これでは畿内説&九州説と同じ間違いをおかす。しかし薩摩(鹿児島)から邪馬台国沖縄本島)までは先生と一緒です。  

ブログ&タンブラー

osamuharada2016-01-24

この【 ブログ 】を書きはじめて、はや十二年目。
最初の2005年は、『 OSAMU GOODS STYLE 』を上梓する予定だったので、その出版のお知らせをかねて何か書いてみようかなと、ほんのデキごころ。当時はブログが流行り出したころでもあり、好奇心がつのって、やりだしてみたら面白くてクセになっちゃったわけね。好き勝手なことを書いて、それで嫌われようがそんなことはお構いなし。この自由度の高さが気に入っています。今までに書いた回数が、今日で793回目。塵も積もれば山となりました。
いまはパソコンよりスマホの時代だそうですね。しかしあれだと小さすぎてブログを書くのは大変そう。もっぱらタブレットを愛用しているのですが、これもメールを書くぶんにはいいけれど、長々しいブログは書きづらい。それに横組で文を書くのも苦手なので、ブログ用にはもっぱらノートパソコンのワードを使い、明朝体の縱組で書いています(それをブログ編集ページにコピペするだけ)。トシヨリにはこれがいちばん楽ちんなのです。
TwitterFacebook といったインタラクティブなものは面倒なので、まだまだ一方的にブログだけ書かせていただく所存であります。ときどきヒマつぶしに覗いてみてくださいね。さて今年は、夏にオサムグッズの回顧展が予定されています。二冊のヴィジュアル本も出版依頼されていますので、おりおりに途中経過なども報告いたします。
自分用の写真アルバムとして(無料の)【 タンブラー 】も気に入っています。http://osamuharada.tumblr.com/ ブログより写真がきれいでしょ。
今日の写真は、久保佐四郎作、郷土人形の「写し」です。左が熊本玉名の「木の葉猿」→[id:osamuharada:20101027] 右が長崎古賀人形「馬乗猿」→[id:osamuharada:20101005] (←こちらは古賀人形の実物です。)

雑誌とトレンチコート

osamuharada2016-01-17

いまや雑誌は買わずに立ち読みですましていますが、70年代イラスト稼業についたころは、出版社が一度でも仕事をすれば毎月その雑誌を送ってくれるようになったので、買わずに定期購読者になっていました。大昔はイラストレーターといえども大切に扱われていたわけです(マガジンハウスは毎年お歳暮までくれましたよ)。そんなわけで、ちゃんと自分で、月刊誌を定期的に買って読んでいたのは、後にも先にもミステリーの専門誌「ヒッチコック・マガジン」くらいでした。ヤツガレ中学から高校にかけて四年間愛読していた雑誌。
この写真は、その【 ヒッチコック・マガジン 】1962年6月号の表紙。当時ぼくは十六歳の購読者。表紙にはいつもどこかにヒッチコックが(映画のように)登場していた。この号では、ひと目でこの店が銀座並木通りにあった【 チロル 】という輸入衣料品店のウィンドウで撮影したとわかりました。子供の頃から銀ブラをしていたので、当時のお洒落な大人がいく店だと心得ていた。スイスやオーストリア製の、登山やスキー用品に、セーターや靴などカッコいいものが勢揃い。高校生では指をくわえてウィンドウショッピングするしかありません。いつか自分で稼げたらココで何か買ってやるぞと考えていました。
ハタチの頃にはバイト代で、チロル・オリジナルのスェードの短靴を買いました。ゴム底が減るとチロルで張り替えてくれるので長年愛用できた。靴のお次は、オーストリア HOFER社製 のチロリアン・ジャケットにハマりました。グレーの霜降り、オリーブグリーン、紺色、チャコールグレーの四着。 そして三十代になり、やっとこの写真右側にあるトレンチコートを誂えることができたのです。チロルのオリジナル・デザインで、スイス製の生地は色もこの写真と同じ。コートの裏には、大きめの織りネームが張ってあり、番傘の一つ目小僧が一本スキーですべっている図柄なのでした。その絵の上にTIROLの文字。それまでが気に入りました。トレンチコートは、ヒッチコック・マガジンで見初めて以来、四半世紀過ぎてやっと注文できたわけです。
【 チロル 】へは、銀座店がなくなると、自由が丘店(店長さんがいい人だった)にも通いましたが、そこもいまはもうない。トレンチコートも、チロリアン・ジャケットも還暦までは着ていました。【 ヒッチコック・マガジン 】は編集長が小林信彦さん(雑誌のペンネームは中原弓彦)で、イラストは弟の小林泰彦さん。この雑誌がなければ、ぼくはイラストレーターにはなっていなかったと思います。表紙写真と同じ号の、小林さんのイラストも Tumblr にアップしました。ベン・シャーンの影響がまだ残っていたころですね。ミステリーの挿絵として、いま見ても惚れ惚れするな。トレンチコートの男も描かれていました。→http://osamuharada.tumblr.com/

二〇一六年

osamuharada2016-01-13

週刊誌は買わないけれど、週刊文春小林信彦さんのコラムだけは、いつも立ち読みさせていただく。しかし、以前は辛口の社会批評をたびたび目にしたが、このごろは映画とテレビドラマの話題ばかりになってしまった。古い映画の話などは、本にまとまってからユックリと読ませていただきたい。週刊誌では、たったいま社会で起きている事について、小林さんがどう思われているかを知りたいのだが…。
ネットの普及とともに、既存のマスメディアの果たしてきた役割が後退しているようにも思える。広告で賄われているマスコミは、広告主にタテ突いたら表現の自由もなくなる。売れなくなると、新聞・雑誌、テレビ・ラジオ、いずこもカネに困ってスポンサーの言いなりだ。貧すれば鈍する。つまらなくなって余計に売れなくなる。
そういえば、「週刊文春」の広告ページは、いつも新興宗教と饅頭屋がレギュラー・スポンサーのようだ。地方の街でテレビを眺めていると、「報道ステーション」では地元のパチンコ屋の広告がやたら目につく。
一昨日のニュースでは、沖縄米軍への「思いやり予算」が20兆円(通算)と騒いでいたが、パチンコの貸し玉料は、毎年20兆円 (以前は30兆)というのに、一度もマスコミで話題になったことがない。またNHKが主催するアイス・スケート競技の生中継をボンヤリ眺めていたら、スケートリンクの壁面に展示されたスポンサーには、パチンコ屋「MARUHAN」のロゴが堂々と並んでいた。業界一のマルハンは、一社で年間2兆数千億円の売上だそうだ。東京五輪にもカネを出すつもりだろうか? いつもヤツガレは「兆」を超える金額のメルクマールとして、このパチンコ貸し玉料(国民がバクチですったカネ)を用いているのであります。ちなみに、新聞社や、出版社の総売上は、それぞれ年間1兆数千億円にまで落ち込んでいて、マルハンたった一社にも負けちゃう。一億総活躍社会の実態は、上層は金融(バクチ)、下層はパチンコ(バクチ)で、みな活躍しているワケね。
古今亭志ん生の落語に、語源を知ったかぶりする年寄りが「バクチ(博打)ってぇのはな、その場で朽ちるってことだ」と若者にデタラメを教える小噺があったが、あながち間違いではないように思える。「その場」は金融の「相場」ともよめる。

スター・ウォーズ

osamuharada2016-01-07

孫にせがまれて正月映画『スター・ウォーズ / フォースの覚醒』を観にいきました。他には「妖怪ウォッチ」か「仮面ライダー」という苦しい選択肢しかないので仕方がない。3Dで日本語吹き替え版。お子チャマ映画などみたくはないが、これも付き合いというもので仕方がない。ヤツガレが幼稚園の時、生まれて初めて観た映画はジョン・フォード監督『駅馬車』だった。音楽も好きになった(主題歌は「俺を寂しい草原に埋めないでくれ」)。やたらと白人がインディアンを殺す映画だが、子供ゴコロに「西部劇」は楽しかった記憶があるので、孫にはスター・ウォーズだってかまわないだろうと安直に考えてしまった。
付き添いながら、さすがトシヨリには退屈で何度も居眠りした。名作『駅馬車』には遠く及ばない。立体映像も特撮やCGでこさえた画面では、もはや面白くも何ともない。かてて加えて物語が安っぽい。広大無辺の宇宙空間においても、なお戦争にばかり明け暮れている人間どもの愚かしさ。という観点があるわけでもなく、ただ不毛な戦意高揚ストーリーが延々と続く。人類の進化はその辺りまでが限界とでも言いたいのか。それに同じ親族間での確執や復讐が何世代も続くので、いい加減うんざりしてくる。宇宙を相手に矮小な個人主義では、あまりに世界観が狭すぎるだろ。どおりで、どこかの戦争好きな世襲総理大臣も、大晦日に喜び勇んでスター・ウォーズを観に行ったわけだ。今年もまた嫌な予感。
孫にはストーリーがまだ解らず、映像のみにハマって宇宙船団の絵ばかり描いている。「ライトセーバー」を作ってやったのだが、夜になるとチャンバラに付き合わされるハメになるのも仕方がない。 付き添いの方向きに、ライトセーバー (上の写真) の 超低予算つくり方伝授します : まず百均で買ってきた懐中電灯の先へ、筒状に模造紙を巻きつければできあがり。ジェダイの騎士用には、紙の裏側をマッキーで適当に青とグリーンに塗り、ダークサイド用は、ピンクにオレンジ色を塗る。子供に夜更かしさせないよう気をつけましょう!

ゆく年くる年:半世紀前

osamuharada2015-12-31

50年昔といえば、ヤツガレも美大のデザイン科(いまやパクリで有名校)の頃です。アメリカンポップスで育ったような十代でしたが、《1965年》は、ビートルズブームの到来で、ヒットチャートも英国調に様変わり、こちらが聴く曲も変化しつつある頃でした。ビーチ・ボーイズの【 CALIFORNIA GIRLS 】のような米国青春モノもまだ流行ってはいたけれど、この年、ビートルズの【 HELP 】や【 YESTERDAY 】【 TICKET TO RIDE 】【 I’M DOWN 】 【 DAY TRIPPER 】【 WE CAN’T WORK IT OUT 】などが次々とヒットして、英国からの新しい波がやってきていた。ローリング・ストーンズなら【 (I can’t get no) SATISFACTION 】ですね。どことなく戦後イギリスの「怒れる若者たち」世代の雰囲気を帯びたロックが主流になりました。アメリカ側でも、ボブ・ディランがアコースティックからエレクトリックギターに持ちかえて、かの【 LIKE A ROLLING STONE 】や【 POSITIVELY 4TH STREET 】で反骨精神を謳いあげ、バーズはディランの【 MR.TANBOURINE MAN 】をカバーしてヒットさせた。ママス&パパスの【 CALIFORNIA DREAMIN’ 】も懐かしく、ライチュアス・ブラザーズが【 UNCHAINED MELODY 】をヒットさせていた年。この前年にはケネディ大統領暗殺があり、かつてのアメリカンドリームは消え失せ、ベトナム戦争は北爆開始で混迷が深まっていった。スプリームスの【 STOP! IN THE NAME OF LOVE 】が好きだった。キング牧師公民権運動、盛んなりし頃でもあった。
明けて《1966年》は、ヒッピ―時代の始まる頃だったかな。ビートルズは 【 YELLOW SUBMARINE 】【 PAPERBACK WRITER 】【 ELEANOR RIGBY 】などが大ヒット。ぼくがハマっていたボブ・ディランは【 JUST LIKE A WOMAN 】【 I WANT YOU 】 など、アルバム『 ブロンド・オン・ブロンド 』からのヒット曲が続出したが、日本じゃ一向に流行らなかった。というより誰も知らなかった。サイモン&ガーファンクルが【 THE SOUND OF SILENCE 】を静かに歌い、スプリームスの【 YOU KEEP ME HANGING ON 】、英国ダスティ・スプリングフィールドの【 YOU DON’T HAVE TO SAY YOU LOVE ME 】が胸に迫った。ヤツガレはやっとハタチになり、とにもかくにも退屈な日本脱出を夢想していた頃でした。さて、大晦日の紅白は今日が最後の森進一(歌手生活50周年)だけ聴けたらよし。あとは半世紀前の洋楽懐メロをYouTubeで勝手に聴くことにいたします。良いお年を!